17世紀に起きたアジアの知識革命、平等にだれもが自発的に学んでこれを拡充すること、この学ぶことの充実が依拠すべきデモクラシーの充実の前提となっていること、こういうことは、「教育勅語」が隠蔽することになった。「はい、天皇です、よろしく」と訳しはじめた高橋源一郎氏は、「教育勅語」がもっている、天皇が教育を与えるという形式とその問題をわかりやすく理解させようとしている。そしてただ理解させるのではなく、偶像破壊的である。それは上手くいっていると思うが、ここから現代語訳はもう一つの問題も理解させなければならなかった。「教育勅語」が問題だったのは、指摘されるように、「國體(こくたい)」概念の曖昧さにあった。「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と定義されているけれど、このように定義されても理解できないし、というか、最初から理解されることを拒む定義としか言いようがない。高橋氏は「此(れ)レ我(わ)ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ」を、「この国の根本」と平易に訳している。注釈なしで、この現代語訳のみで「教育勅語」の危うさをどれだけ考えることができるのか分からないのであるけれど、せっかくこの訳を生かすならば、「この国の説明不可能な起源」という訳も可能だったとおもう
「弁名」ノート No. 17( 私の文学的フットノート)
「弁名」ノート No. 17( 私の文学的フットノート)
原文: その言うべからざるを以てや、故に先王は言と事とを立てて以てこれを守らしむ。詩書礼楽は、これその教えなり。この故に顔子の知を以てするも、なお且つ博く文を学び、これを約するに礼を以てし、しかるのち、その立つ所卓爾たるものあるがごときを見る。もし道をして一言に瞭然たらしめば、すなわち先王・孔子すでにこれを言いしならん。万万この理なし。あに妄の甚だしきならずや。
•博く学ぶこと、つもり博学に価値がおかれるのは、多様性方向である。道というものは無理に一言に統合できるものではない。
子安訳; 道とは言葉をもって説きえないものであるゆえ、先王は詩書に見る言と礼楽の事とを以て道を守らしめたのである。詩書礼楽とは、先王の教えである。それゆえ願子の知をもってしてもな「博く文を学び、これを約するに礼を以てし」(『論語』雍也) てはじめて孔子の高く立つところを理解したのである。もし一言で道を瞭然たらしめうるとするならば、先王・孔子の知をもってすればとっくにそれをしていたはずではないか。一言をもって道を明らかにするなどということほど馬鹿げたことはない。