高橋源一郎氏の現代語訳「教育勅語」を読む

高橋源一郎氏の現代語訳「教育勅語」を読む

17世紀に起きたアジアの知識革命、平等にだれもが自発的に学んでこれを拡充すること、この学ぶことの充実が依拠すべきデモクラシーの充実の前提となっていること、こういうことは、「教育勅語」が隠蔽することになった。「はい、天皇です、よろしく」と訳しはじめた高橋源一郎氏は、「教育勅語」がもっている、天皇が教育を与えるという形式とその問題をわかりやすく理解させようとしている。そしてただ理解させるのではなく、偶像破壊的である。それは上手くいっていると思うが、ここから現代語訳はもう一つの問題も理解させなければならなかった。‪「教育勅語」が問題だったのは、指摘されるように、「國體(こくたい)」概念の曖昧さにあった。「大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と定義されているけれど、このように定義されても理解できないし、というか、最初から理解されることを拒む定義としか言いようがない。高橋氏は「此(れ)レ我(わ)ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ」を、「この国の根本」と平易に訳している。注釈なしで、この現代語訳のみで「教育勅語」の危うさをどれだけ考えることができるのか分からないのであるけれど、せっかくこの訳を生かすならば、「この国の説明不可能な起源」という訳も可能だったとおもう‬

アイルランド

アイルランドにいたのか?」と聞かれたら、「20世紀の主たる作家はこの国から現われたから」と答える。「なぜ?」と問われたら、「ここにあらゆる人間の問題があるから」と言う

八十年代は、七十年代の開かれた批評精神の形骸化ー文献学的プロ意識の復活ーである。ポスト構造主義はジョイスのテクストによって、他者にhelloと言う書記行為、グローバル資本主義の搾取にNoと声をあげことの倫理的意味が読み出される。<私は話す>ということは、アイルランド演劇がこれを初めて行う。アイルランド演劇の前に、<私は話す>は一度も起きなかったのである。

曖昧な共感

政治はもっと生活者の立場から政治を行えと不満をもっているのに、その国民に共感をもたない安倍内閣になお曖昧な共感をもつ理由はどこに?安倍首相が次の首相と決めているほど彼を理解しているこの者が公にこう言っているのに?

「国民の生活が大事なんていう政治は、私は間違っていると思います」(稲田防衛相)

「弁名」ノート‬ No. 17( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 17( 私の文学的フットノート)

‪原文: その言うべからざるを以てや、故に先王は言と事とを立てて以てこれを守らしむ。詩書礼楽は、これその教えなり。この故に顔子の知を以てするも、なお且つ博く文を学び、これを約するに礼を以てし、しかるのち、その立つ所卓爾たるものあるがごときを見る。もし道をして一言に瞭然たらしめば、すなわち先王・孔子すでにこれを言いしならん。万万この理なし。あに妄の甚だしきならずや。

•博く学ぶこと、つもり博学に価値がおかれるのは、多様性方向である。道というものは無理に一言に統合できるものではない。

子安訳; 道とは言葉をもって説きえないものであるゆえ、先王は詩書に見る言と礼楽の事とを以て道を守らしめたのである。詩書礼楽とは、先王の教えである。それゆえ願子の知をもってしてもな「博く文を学び、これを約するに礼を以てし」(『論語』雍也) てはじめて孔子の高く立つところを理解したのである。もし一言で道を瞭然たらしめうるとするならば、先王・孔子の知をもってすればとっくにそれをしていたはずではないか。一言をもって道を明らかにするなどということほど馬鹿げたことはない。

彫刻の肉体

仏像でもギリシャ像でも共通だと思うが、面というのは肉体を喚起する凹凸を演出するが、覆い隠した内部の個物たちを包摂してしまう。ところが空間は線の流れにおいて再構成されていれば、隙間から、其れらは表に現われるだろう、海面からランダムに現われる岩石のように。詳しくは知らないが、多分和辻はこのことを岡倉から学んだ。永遠の相は変化において支えられると。問題となってくるのは、線的再構成は外部を世界の中心にしているかという点にあると思われる。そうでなければ包摂してくる偶像を破壊したつもりでも、再び包摂する線の偶像を作り直してしまう。

排除

同じ民族は排除する。それを超えた同じ階級も、階級から排除された大衆も、排除を行う。それらを包摂した市民社会も排除がある。国家と対等な市民、人類の概念はより普遍的である。だが動物や植物を排除する。同一性の概念の指示をやめたとき、このものがかくあることが他からする必然性を肯定できるか