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デ・シーカ「ウンベルトD」

「イタリア古寺巡礼」が読ませる栄光などは所詮和辻の旅行者としてのある種の特権的立場の視線で、イタリアはそんな小さな所に存在しないのだ。私がイタリアの全体を知っている所以は何か?昨日観たデ・シーカ「ウンベルトD」によってである。悲惨を映し出したスクリーンは、イタリアと同じ大きさをもっている

翻訳

古事記』の小説風の現代語訳となると、近代文学は自分が一体何を訳しているのか自分でも分からないだろうーもしかしたら「古典」の名で小説は自分自身を翻訳しているだけかもしれない、と、読者の中にはそれを見抜く人もいるはずだ。今回『方丈記』の古典を訳す感じで『教育勅語』を訳したのは、勝手な教説を押しつけられないためであった。そういうカウンターが反権威主義のネットの場で拡散しているのは大事だし、その意図に大いなる敬意を表するものだが、その翻訳についても、これを読むとき、対抗的に、戦後民主主義が自分自身を翻訳したというような印象がどうしてもある。(私の読み間違えかもしれないが。) 現代語訳に終わることなく、それを発展させるために、どうして「国体」の教説が、ほかの「古事記」や「万葉集」の読み、吉田松陰の読み、国民道徳と靖国言説と一緒に一体をなして、人びとを心の中心から洗脳させてしまうことになったのかという問題を分析できるような、『教育勅語』の批判的注釈も必要となるだろうし、そこから昭和の近代を相対化していく思想がつくられていくことに期待したいのである。私も努力する。デモクラシーを充実させていく、グローバル時代の新しい普遍主義をさがしている所に、時代遅れの「教育勅語」を声高に言う19世紀・20世紀国家を作り直そうと一生懸命の悪い形に
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デモクラシー

デモクラシーを充実させていく、グローバル時代の新しい普遍主義をさがしている所に、時代遅れの「教育勅語」を声高に言う19世紀・20世紀国家を作り直そうと一生懸命の悪い形に

Es hat mit euch eine Beschaffenheit wie mit dem Meer, dem man unterschiedentliche Namen gibt, und es ist doch endlich alles gesalzen Wasser.

君たちは海のようだ、それぞれ違った名前が与えられているが、結局はみな塩水にすぎない。(ゲーテ)

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‪「教育勅語」

‪「教育勅語」は、皇帝が与える明代の「孝経大全」を真似た。「孝経大全」の場合は、古え天を祭るのは天子の事であった。中江藤樹が行ったことは、その宇宙の究極的神格太乙神を民の側に奪うことであった。彼はこの祭祀を「士庶人事」としてしまう、つまり、自分の心のテクストにしてしまうのであると子安氏はみる(「中江藤樹ーなぜ近江聖人なのか」)。藤樹の『孝経』持誦という行法に注目してみると、それはすべての人びとがもつ母子一体性の本源的な記憶を内観法的な回想によって現前化することを求める行だったといえる。詳しく知らないが、この実践的な行は挫折しなかったか、挫折をもたらすかもしれない。よく調べる必要があるが、私の理解では、そこから、藤樹において「孝」として理念化されたのではあるまいか。そうして、藤樹は、「孝」によって生きることは、だれにでも可能であり、それによってだれもが人間的価値をもつことを初めて語ったと考えられる。私の誤読でなければ、わかりやすく言ってしまうと、‬等しく誰も持っているからアプローチできるもの、それが「孝」といわれるものとして発見されたと言ってよいか。現在のわれわれは、自分自身への反省として書くが、藤樹が「孝経大全」を解体できたように、現在復活してくる歴史修正主義者たちの「教育勅語」を解体しているといえるか。問われている

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絵で書くこと、文字で描くこと。曖昧な同一性しかないのに、書くことと描くことの間に区別があるのか?

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祀られることなく剥き出しの折り目も

忘却の余白も包められることなく

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「弁名」ノート‬ No. 19 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 19 ( 私の文学的フットノート)

‪道とは統名であり、人間社会と等価の大きさをもつといわれる。徂徠が指さすのは、この道と同じ大きさをもつ、命名者であり制作者である先王=聖人であった。聖人は人びとと本性を同じくしない。この聖人観は朱子の本体論的な性概念の否定と切り離せない。そのようにして、人の性とは生まれつきの性質であり、異なる人ごとに異なる特殊性(「性は人人殊なり」)である。徂徠によれば、その人によって得られる徳も異なるとされる。「徳もまた人の特殊性において把握される。これは普遍的な道徳性に対する解体的な批判であり、攻撃である。」(子安氏)。徳は人ごとに殊なる。ここで問題となってくるのは、そもそも人の性がこのように特殊性となるとき、ではいかに人びとは社会の全体性に連なりうるのかである。人間世界の全体性をとらえようろする徂徠の議論にとっては、人の性からは答えが出てこないことだけはたしかである。‬むしろ「弁名」は、人間社会の構成論の必要を言ってくるのである。