プラトン「ソクラテスの弁明」

ダブリンでのプラトンソクラテスの弁明」の読書会のことを思い出した。米国のエンジニア達が多数参加してきた。哲学者の専門家達を相手にした「無知の知」を主張した学問の意味について理解することはなかった。職業人が人間である為に要請される普遍的理念性を問うたルネサンス精神を時代遅れだと嘲笑った。教会の権力に縛られているアイルランドは、フランス革命だけでなくルネサンスを必要とすると訴えたリベラルな知識人の言葉を考えようともしない。

中世

‪日本は中世があったかという問いかけに関連して、中世の概念はヨーロッパだけである、と、Le Goffが指摘していたことを教えて頂いた。中世というと、汎ヨーロッパ的な権力を巡って教皇権が世俗王権と争うということがあったのである。権力は知の権力も含むだろう。思いつくのは、たとえば、法王に対抗して、神聖ローマ皇帝はヨーロッパ遠方からボローナ大学にやってくる学生たちを保護したということ。もっと近い時代では、オーストリア帝国からのトリエステの独立の問題は、単純にイタリアの部分になるということで解決する問題ではなかった。都市自治の時代を無視できないし、ミラノとローマの対立を考慮しなければならないという。私の関心であるジョイスがいたトリエステは、帝国(オーストリア帝国)にも、新しい国家(イタリア)の部分になることも望んでおらず、ジョイスの白紙の本のような感じでヨーロッパに属したかったと読める。エーコが読み解いた「ユリシーズ」は、ヨーロッパがヨーロッパであることが中世からする必然性を喚起させる。‬

‪なぜ現在、応仁の乱のについてこんなに関心が高まっているのか知らないけれど、鎌倉幕府の統治は江戸幕府ほどには地域的普遍性がなかった。二つの日本を前提にしてこれを考えると、「西」では、応仁の乱でそれまで続いた古代天皇制が崩壊したのである。「東」は、貴族から独立した武士政権。6、武士は独自の文化がなかった。武士は貴族の王朝文学を借りた滅びの美で自己を表現しなければならなかったのは奇妙だ。貴族は武士に依存していた。中世の概念とは何か?アジアに適用してきたことに無理はないか。中世がなかったとしたら、日本の中世なき近世や近代にどういう影響を与えていくのか?

アーチストとは何か?

避けることができれば避けたい呪われた問いかけ、それはアーチストはアーチストである為に要請される普遍的理念性のこと。定義の型に嵌るならば定義しない方がいい。芸術作品は理性の中に位置づけられない。芸術家は芸術作品なのだ。そしてニーチェが言う意味で、人間はもはや芸術家ではない、芸術作品となったのだ(Der Mensch ist nicht mehr Künstler, er ist Kunstwerk geworden.) 客体の側から破綻したものが主体に流れ着き回帰するときでも主体に統一はない。無理に統合できない。

蕃山

三大難問。武士は文化をつくらなかった?日本は中世がなかった?そして武士とは何か?武士は自らを代表することができるためには何が必要だったのか?町人が普遍的な「人」であるために要請される「学」は16世紀の仁斎が最初に言ったが、この「学」は、武士が武士であるために要請される「学」のこと、19世紀知識人を形成していく彼らの儒教的教養であった。思想史の位置づけにおいて、仁斎と同時代の蕃山の言説は、仁斎の「学」の意味を照らし出すものとしてあったことが分析される。(本多)

アジア

何をおいても米国に連なる日本との関係を絶った中国は自らを再構築する民主主義的契機を失うかもしれないこと、韓国の米国の介入を好まない左翼が直に中国と対話するとき米国はアジアを失うこと、ここから日本は自ら依拠すべきアジアの民主主義を失うこと、新たにこれらの孤立が同時に起きる危険がある