映画『ザ・論語』の構想

忘れないように、映画『ザ・論語』の構想を書いておこうとおもいます。孔子と弟子達を撮るとしたら、たとえば切り替えのショットを利用して彼らの位置的関係を示すのがよいでしょうか。そうして対称性を以て分割された空間は同質的であるといえるでしょうね。他方で『論語』は体系的な思弁の書にあらず、孔子の言葉は実践的に具体的な内容をもっていて、孔子から切り離せない弟子達一人ひとりに応じて異なっていました。また『論語』が過去とその言葉に依拠するのは、(「映画史」が過去の映画を呼び出すのと同じで)、新しく考えるために必要だからなのです。そして原初的テクストである『論語』を読むためには、朱子とか仁斎と徂徠による読みに依るのでなければ、『論語』についてなにが新しくいわれることになったのかを明らかにすることができません。問題となってくるのは、『論語』におけるこの注釈の思考をスクリーンに一体どのように表現するかということ

官僚

官僚は国民の公僕としての自覚を言うも半信半疑。国民の多数派政党の為に働くと言うのもぶりっこ。文字を重んじる知識人の影響圏にあった。世界的傾向だが、計画をやめるという市場任せのグローバル時代に官僚は考えることをやめてもう二十年もたつ。なお存続できるとしたら、官僚が官僚の名に値するそのあり方とはなにか?

「弁名」ノート‬ No. 26 b ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 26 b ( 私の文学的フットノート)

‪「ただ仁に依りてしかるのち道は我と得て合すべし」(仁の大徳に依拠して徳をわれに成すことで、仁をもってする聖人の道とわれとは合一するのである)といわれていることについて述べているが、いかに特殊が全体に連なるのか。「学び」によってである。つまり「聖人の道の学び」によってである。「人は己れのそれぞれの殊なる性質にしたがって徳を形成するのではあるが、しかし学ぶところはみな聖人の道である。」武士は武士の名を得るのは、学びによってである。官職について安民の職務を果たすという目的が与えられている。‬

‪(子安訳)「聖人の道の学びによって、人は己れのそれぞれの殊なる性質にしたがって徳を形成するのではあるが、しかし学ぶところはみな聖人の道である。そもせいじんの道の要は民を安ずることに帰着する。だとすれば、聖人の安民の徳である仁に依ることなくして、どうして聖人の道に長和・順応して、徳を己れに形成することができようか。聖人の大徳に拠らないとは、たとえば人を食べさせるのに五穀をもってしないことと同じだ。人は痩せ衰えて死ぬだけだろう。君主が人々に学ばせて徳を形成させるのは、彼らをどこに用いようとしてなのか。彼らをその材として形づくられる能力にしたがって官職につけ、安民の職務を果たさせるためである。このように聖人の徳は完備するためであるとはいえ、また君子の徳はその性質にしたがって殊なるといえ、それはみな仁を補佐し、安民を実現させるためだ」‬

知識人が語る「天」の意味

知識人が語る「天」の意味

「天」の意味と知識人が語る「天」の意味は同じにあらず。知識層から知識人となっていく方向づけにおいて、同様の普遍主義的な語り口とはいえ、仁斎と徂徠の差異から近世思想史の言説的曲面をかくことができよう。徂徠の謂わば「一番弟子」であったと考えられる宣長とて、この儒家言説の枠組みに接すると理解できる。篤胤は反知識人的だけれど、だからといって近代主義が烙印を押したようにそれほど反普遍主義といえるのだろうか?問題となってくるのは、篤胤の世界は先行する全ての言説的曲面の"正しさ"を疑う点でメタレベル的に普遍主義に属するという風に言えるのではないかという点である。

‪「『顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天予(われ)を喪(ほろ)ぼせり。天予を喪ぼせり』の反対側にあるのは、『我を知るものは其れ天か』という言葉である。この言葉は、天に置いた孔子の究極的な信を言っている。天への信において孔子は究極的に立つゆえに、その挫折の嘆きは天に見放されたものの嘆きとしてある。孔子にあるのはこの天への信である。信とは信頼である。信とはその人の深奥における究極的な信頼的依拠である。天への信において孔子は立つゆえに、その挫折は天に見放されたものの嘆きとしてあるのである。『天予を喪ぼせり』と嘆く孔子は、顔淵の死に慟哭する。」‬(子安氏)

‪「...ここには同じく古学をいいながら仁斎と徂徠の学を隔てる何かがあることがいわれている。その何かとは一つには超越的な天の問題である。仁斎には道徳的理念としての天は存在しても、己れの究極的な依拠(信)を置くような天はない。だから仁斎は『論語』の孔子の言葉にこうした信が向けられるような天を読むことはない。一方、徂徠は孔子が奉じる先王の道の究極に超越的な天を見るのである。『先王は天を奉じて道を行う』といった言い方を徂徠はするのである。」‬子安氏)

反証の精神

戦争が始まると反証の精神が眠っていました。(科学者の報告を無視した)ブレア元首相の「大量殺戮兵器あり」とするテレビでの説得と米軍との戦争協力の決定によって、イラクへの空爆を賛成する声があっという間に二割から八割となったのです。さて安倍政権がいう「大量殺戮兵器」が存在するか存在しないかはまさか内閣支持率によるというような、戦争の始まる前にこのように判断が終わってしまっていることはないでしょうね?でも本当に大丈夫なのでしょうか?

「弁名」ノート‬ No. 27 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 27 ( 私の文学的フットノート)

‪(子安訳)「しかも先王は聡明叡智の徳を備え、礼楽を制作し、道を定立し、天下後世をしてこも道を最上の規範として由らしめたのである。後世の君子たるものはこの道を奉じて、天下にこれを規範として行ったのである。先王は聡明叡智の徳を有するというが、その徳をこのように道の定立に用いずしてどこに用いることがあろうか。しかも先王における道の定立は、仁すなわち安民の徳をもってするのである。それゆえ先王の制作になる礼楽形政は、いずれも人すなわち安民の目的をになわないものはない。このようにあるならば仁を奉ずる人でなくして、だれが先王の道を行うことを己れの任務とし、安民の課題を果たすことができようか。それゆえ孔子の教えは、仁を至上とし、その「仁に依る」(『論語』述而)ことを務めとしたのである。聖人の大徳である仁に依拠することに務め、だが聖人となることを求めないのが古えの道であったのである。孟子が、「仁は人なり。合わせてこれをいえば道なり」『孟子』尽心)といっている。仁の大徳に依拠して徳をわれに為すことで、仁をもってする先王の道とわれとは合一するのである。これは古来伝来の説である。」‬

‪武士は自身を表現するための自分自身の文化をもったか?津田左右吉、「応仁の乱」の著者呉座氏によりながら、内藤湖南も参照して、武士のアイデンティティを思想史から考えるとどうなるか?守護在京制で公家の文化と接した武士が応仁の乱が生じたことにより京都を離れることになりこれを各々の地方に伝えたとする呉座氏の記述が中々興味深い。複数形の「小京都」を成り立たせる交通が武士の媒介的存在によって起きたといえようか。重要なことは、作ることの普遍性と等価の媒介するという媒介的存在が、16世紀ー17世紀の知識層の成立を促したという事実である。知識層から19世紀の知識人が生まれるが、荻生徂徠は知識人への方向づけを行ったと私は理解している。武士は自身を表現するための自分自身の文化をもたなかったが、文化のかわりに制度論を作り始めた。このことを踏まえたうえで、ここで仁と安民の理念につらぬかれる道をいう徂徠の言葉と子安氏の評釈をよく理解できよう。‪ここでの子安氏の分析のポイントは、武士は制度の言説を作り出したというところにある。20世紀解釈学のエートス論(和辻)にたいする批判的相対化の意味が与えられていることを見逃すことはできない。‬

‪「聡明叡智とは聖人の徳である。徂徠において制作者としての先王が聡明叡智の徳を有する聖人だとされる。したがって先王が聡明叡智という聖人の徳をもって道を制作するのである。何にもとづき、いかにして道を制作するかという、制作するゆえんは、聡明叡智を称される先王(聖人)のみ知るところである。聡明叡智とは 、一般的な知と隔絶した超越的な知である。... 制作者である先王はさらに仁という安民の大徳を備える存在である。先王による礼楽刑政とく道の制作は、この仁の徳をもってするものであり、その制作行為はすべて安民というテロスに貫かれている。後世の人が先王の道を奉じて行うことも、道を貫く安民のテロス(仁の理念)をいまここで実現することだとされるのである。」(子安 徂徠学講義)‬

フランス大統領選挙

‪トマス・ピケティ(社党候補アモンを支持)が、決戦投票がマクロン対メランションになったときは、メランションを選ぶという。ちゃんと社会民主主義グローバル資本主義とル・ペンに対する対抗軸を作る言説の闘いがある。安倍政権に対しては、どうしてフランスみたいな形で抵抗できないのか?「21世紀の資本」が読まれていても、時代遅れのことをずっとやってきてはいないだろうか、と、この問題は、帝国主義日本が確立する時代にそんなことはお構いなしにデモクラシーの鏡とされてきた「大正」の問題を批判的に考える必要があるというのがわれわれの見解なのである。