古学

‪「古」には誇り高いものがあったが「今」のダメさをいう言説を最初に発見した人は、2500年前の孔子である。ネット時代から初まったのではなく、いつの時代にもこの通りのことが‬...‪

さて、「古」と比べると「今」はダメだと言っているだけならば、「今」の意味から「古」の意味を解釈しているだけであり、そのことがダメなのかもしれない。それならばどうするか?「今」を乗り越えるために、「今」から抜け出すこと。「古」へ行くこと。そうして読み解かれる「古」から、「今」を相対化してみようというのだ。

それで仁斎と徂徠の古学は成功した。ところが国学はどうか?「古事記」に漢字のほかに何も書かれていないというのに、想定した大和言葉でしか読み取れない「古言」の意味を読むというのだから、これは無理だろう、古学のようには...。私の理解が間違っていなければ、意味ある思考として「古言」を読むためには漢字という書記言語から出発してかんがえていけばよいことを示しているのであり、宣長の徂徠から影響された方法論的思考に積極的な意味があったということを子安氏の「宣長論」から学んでいる

「ありうべきあらゆる言葉(パロール)の頂点にいたるとき、人間が到達するのは彼自身の中心にではなく、彼を制限するところのものの縁である et qu'en parvenant au sommet de toute parole possible, ce n'est pas au cœur de lui-méme qu'il arrive, mais au bord de ce qui le limite)」(フーコFoucault) 参考1 ‪徂徠の古学 ‪ー子安宣邦著「『事件』としての徂徠学」("宇はなお宙のごときか")より抜粋‬ ‪中華聖人の国の言語と東海の国の言語との相違のきびしい認識の上に、「詩書礼楽」を中国の言として、目でもって聴く理解を主張する徂徠は、古言と今言との間の非連続性をも主張する。『徂徠先生学則』の第ニ則は、「宇は猶ほ宙のごときなり。宙は猶ほ宇のごときなり」というよく知られた言葉で始まっている。それは言語に空間的相違があると同様に時間的相違があることを言うのである。この言葉で始まる徂徠の『学則』第ニ則は、言語の空間的相違と時間的相違とを対比してのべながら、時間的相違をこえることの困難の方がより大きいことをいう。それを説く徂徠の言は、華麗な文辞によってまことに魅力的である。‬ ‪ 宇は猶ほ宙のごときなり。宙は猶ほ宇のごときなり。故に今言を以て古言をみ、古言を以て今言をみれば、均くこれ朱離鴃舌(しゅりげきぜつ)なるかな。科斗(かと)と貝多(ばいた)と何ぞ択ばん。‬世は言を載せて以て遷(うつ)り、言は道を載せて以て遷る。道の明らかならざるは、職として是にこれ由る。百世の下に処りて、百世の上を伝ふるは、猶ほ越裳(えつしょう)氏の九訳を重ねるごときか。訳を重ねるの差は、弁詰す可からず。‬ ‪「宇」は天地四方をいい、「宙」は往古来今をいうと注釈されている。今言に対する古言のありようは、空間的に距たる言語を朱離鴃舌ときくことと変わりはない。古言が今言から距たるあり方は、中国の古代文字「科斗」、インドの「貝多」が現在からはるかに距たっていて理解困難であるのとえらぶことがない。‬‪「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて遷る」という徂徠の言葉もしばしば引かれる。だがこれは言語の変遷とともに道の変遷をいう、「道」の歴史的相対的な規定にかかわる言葉であろうか。むしろこの言葉は、「道の明らかならざるは、職として是にこれ由る」に続けて見るべきだろう。言語は変遷する、それとともに先王も道は見失われたのだ。あるいは言語とともに先王の道が変容してしまったのだ。だから百世の下にあって、百世も距たる古代先王の道を変遷せる言語を通じて伝え聞こうとする困難は、はるか南方の越裳氏が九訳を重ねて朝貢したというその困難といずれが大であろうかと徂徠はいうのである。「訳を重ねるの差は、弁詰す可からず」、九種もの訳を重ねた結果のはるかな相違は、もはや訂(ただ)しようにもない。だが南方の越裳氏ははるかに距たるとはいえ、当代に属しているではないかと徂徠は言うのである。‬ ‪万里はるかなりと雖も、猶ほその世に当たる。奘(じゃう)の身の身毒(けんとく)に游ぶに熟若(いづれ)ぞや、故してまた故せば、子孫運仍(うんじょう)、いづくんぞその祖を識らん。千歳逝きぬ、俗移り物亡ぶ。故は恃む可からざるなり。いづくんぞ能く身を仲尼の時に置きて、游・夏に従ひて親しくし業を受けんや。宇と宙とは果たして殊なるなり。‬ ‪南方の越裳氏ははるか距たるといっても‬ ‪といっても当代に属している。しかし玄奘がインドに赴いて仏教を学ぶにあたっては、地理的な距たりとともに時間的な距たりが加わっている。古言の訓話に訓話を重ね、原意がもはや捉え難くなっているあり方は、百世の末裔がその祖を知り難いのと同様であろう。そうであるならば、宇は宙と同じであるといえるだろうか。今言と古言との間の距たりがもたらす困難の方がより大ではないかというのである。その今言と古言とのはるかな間の距たりに対して古文辞学があると徂徠はいうのである。‬‪「吾れ千鱗氏の教えを奉じて、古えにみて辞を修む。これを習ひこれを習ひ、久しうしてこれと化して、辞気神志、皆な肖(に)たり。辞気神志皆な肖て、そして目のみ、口の言ふ、何ぞ択ばん」。千鱗氏とはさきにあげた明の古文辞家李()竜である。古文辞学の教えにしたがって、古えを見つめ古文辞に習うこと久しくして、言葉遣いも精神もすべて古人に似るにいたったと徂徠はいう。‬ 参考2 宣長の古学 ー ‪正しい古言理解と分かちがたい漢意批判とな何を意味するのだろうか‬ ‪宣長の古え学びは、この真淵の教えにしたがって、漢意批判を思想方法論としてもった古言注釈の学として成立するのである。いまこの宣長古学の構造を図示してみよう。‬ ‪宣長古学において漢意批判と古言理解とはいえ、古意解明のための二つの方法的な前提をなすような思想作業である。この二つなくしては古意解明の学としての宣長古学は成立しないのである。ところで京都遊学の宣長は、荻生徂徠蘐園派の古典的詩文の世界にあった。当然、徂徠の古文辞学という古言への方法的な視線をも宣長は己れのものにしていったであろう。すでに徂徠の古文辞学を知る宣長の古えの学びが、何よりも古言によって古意を得る古言の注釈学となるだろうことは、すでに予想されたことだともいえる。しかしここで真淵古学に接したことは、宣長古学に何をもたらすことになったのか。それは宣長の古学を「「日本(やまと)の古学」すなわち「国学」たらしめる何かであったはずである。その何かを、私は前の図に示したような漢意批判と古言理解との二つを重要な方法的前提とした古意解明の古学のあり方に見るのである。‬‪漢意批判と古言理解とが、その両者ともが古学の方法的な前提であるとは、漢意の批判なくしてわが古言の正しい理解はなく、わが古言を正しく理解するには漢意を取り除かなくてはありえないということを意味している。それでは正しい古言理解と分かちがたい漢意批判とな何を意味するのだろうか。ここで宣長らの古学のテキスト、すなわち『古事記』『日本書紀』などの古記録がすべて漢字で記録されたテキスト、漢字漢文の表記からなるテキストであることに注意しなければならない。ことに宣長が畢生の注釈的課題とした『古事記』とは、体系的に漢字で表記された日本の最初の文献であったのである。とすれば漢意批判とは、この異言語文字である漢字で表記されたテキストからわが日本(やまと)の古言を正しく理解し、真実(まこと)の古意をえるためにこそ必要な方法だということになるだろう。‬ ‪子安宣邦宣長学講義」(岩波書店、2006)‬ ‬

溝口の映画

溝口監督が描く商人像はそれほど面白くないとおもっている、それとは正反対の商人像を描いた歴史家の網野が評価するようには。いまは、寧ろ、溝口の武士像の表現に注意しなければいけないとおもっている。「平清盛」では、何者か分からぬ者達の寺社貴族の超越性に対する拒否が描かれていた。「忠臣蔵」では、武士は‪自身を表現する文化をもつかわりに‬支配者からする制度の政治的議論をもつことになった様子が窺える。このように映画で可視化された武士像の変遷は、溝口の歴史の全体を考えた高い知的探求によって可能となったのではないかとあらためて思うことである。

作品

作品の名に値するようなテーマの存在を説明するのが苦手ですが、何も頼らずに読めるかというとそれはあり得ないという問題がありますね、この問題を考えています。例えば、ヨーロッパ語で書いたヨーロッパの近代を読むときは、それを考えるフレームが必要です。漢字仮名混交文がそのフレーム。だけれどそれで日本語を読んでいるだけなのです。不可避的にギャッが起きてくるのは、ここにおいてですね。自然に読むということはあり得ないと思うのです。依拠するフレームの存在を考えることなく、読む行為はそもそも不可能。思考の限界というこの問題をべつの仕方でかんがてみます。封筒を開いたときそこに読むべき手紙がはいっているなどと言うことは可能でしょうか?封筒を開けるときに、手紙は脱出しているかもしれませんから。それなのに、私しか開けない封筒の内部に私が読む手紙が入っているというふうに考えるのは、言葉のなかに人間が存在していると考えるのと同じくらい無理なんだろうと気がつきはじめました。二つの封筒を使っているのですが、中の手紙が自ら封筒に成ることで脱出していることをうまくあらわしていますかね?‬まだまだかー

『童子問』とは何か

‪『童子問』とはなにか‬

‪中世の形而上学存在論が終焉した時代に成り立ってくる、近代(近世)における経験知の舞台から、復古の宇宙論的教説が批判されることになった。『童子問』では、伊藤仁斎が自らを童子(初学者)の立場において、過去の自分と対話を行う。『童子問』を読むとき、その舞台に存続していた形而上学に対する、最後のそして最初の思想闘争の観がある。伊藤仁斎にとって重要なのは、深層でない平易なものである。存在論の「均く」という言い方を繰り返す同一性を指示する言説の正反対の方向から、あるいはそれを切断した形で、深層でない平易なものにおいては同じものはなく差異しかないのだから、思想における深層でない平易なものの重要な意義が説かれる。「理」の内部になんでもかんでも位置づけることの無理が言われてくることになった。と、同時に、「理」の外部から、依拠できるもの(信)が要請されてくることになった。ここから、『論語』を注釈したべつの本で、「宇宙第一の書」が何であるかが指示されてくる。この過剰な言い方は宗教とは無関係だし形而上学の復活というふうにも理解できない。どういう経緯でこの言葉が取り除かれることになったのかは諸説あるが、徳川政権の批判が政治批判を意味しそれが絶対にゆるされないようにな時代にあって、伊藤仁斎が道徳論からするギリギリの言葉だったかもしれないと21世紀の『論語塾』のあいだで推測されている。人類が依拠できる、時代と同じ大きさをもった思想の書物を、「宇宙第一の書」と命名したのではあるまいか。‬

(『童子問』の子安先生の講義は明日、飯田橋のRENGOで一時から行なわれます。だれでもいつでも参加自由です。コピー代要)

だれが博物学を語ったのか?

‪ 「このように配置され、このように理解された博物学は、物と言語(ランガージュ)とがともに表象に依存することをその成立条件としている。しかし、博物学になすべき仕事があるのは、物と言語(ランガージュ)とが切り離されているからにほかならい。したがって博物学は、この隔たりを短縮し、言語(ランガージュ)を視線にもっとも近いところまで、見られた物を語にもっとも近いところまで、導かなければならない。博物学とは、まさに可視的なものに名を与える作業なのだ。そこから、その外見上の素朴さ、遠くから見れば愚直ともいえるほど単純で、物の自明性に規定された、あの足どりが生じるのである。われわれは、トウルヌフォール、リンネ、ビュフォン以来、それまでいつの時代にも可視的でありながら、視線のどうしようもない一種の放心状態ゆえに見落とされてきたものを、人々が語りはじめたという印象を持つであろう。けれども実際には、それは千年来のフォン不注意が突然おわりをつげたということではなく、新たな可視性の場が、そのすべての厚みにおいて成立したということである。」(フーコ 『言葉と物』佐々木訳 )

‪ ‪「哲学者はいくらでも明確さを誇りとするがとい。...しかし、私はあえて言うのであるが、彼とても類似の助けを借りずには自分の分野で一歩たりとも前進することはできまい。もっとも抽象性の低い学問でも、その形而上学的側面を一瞥するがよい。そして個々の事実から引き出される一般的帰結が、というよりはむしろ、属そのものや種やあらゆる抽象概念が、類似という手段なしで形成されるかどうか言ってほしいものだ」(メリアン)‬相似は、知の外縁にあって、かろうじて見てとれる形態、関係の原基ともいうべきものをなしている。それは、認識によってすみずみまで覆われるべきものだが、いわば無言の消し難い必然として認識のしたにいつまでもとどまるのである。(フーコ 渡辺訳) A l'ourlet extérieur du savoir, la similitude, c'est cette form á peine dessinée, ce rudiment de relation que la connaissance doit recouvrir dans toute sa largeur, mais qui, indéfiniment, demeure au-dessous d'elle, á la manière d'une nécessité muette et ineffaçable.( Foucault)‬

‪ 参考 〔natural history〕自然物、つまり動物・植物・鉱物の種類・性質・分布などの記載とその整理分類をする学問。特に、学問分野が分化し動物学・植物学などが生まれる以前の呼称。また、動物学・植物学・鉱物学などの総称。自然誌。自然史

‪ •あまり知らないことについて書くまいと思っていたのですけど、雑なレッテル張りの無知なお喋りをどうかゆるしていただきたいとおもいます。私には難しいテーマですが、博物学についてです。多少文章も整えたつもりですが、説得力をもって語るにはもう少し時間がかかるとおもってます。バブルの80年代のことを語るのに、好奇心をもってこの時代に注目された「博物学」について語るということを思いつきました。さて大博物学の時代の想像で書いた動植物は教育上良くないという理由で大英博物館にもあまり展示されていないらしいのですが、これに怒っていた人がいたが、博物学の真面目さというか不真面目さというべきか、ヤバさみたいなものをあえていえば、あり得ない土地にあり得ない花が咲いている世界、というか、語り得なかった物を見られなかった言葉に接近させるとういうべきか、そうして配置され理解された世界を、類似によって、そのままに受け入れて称えてしまうというべきでしょうか。(この博物学の類似の想像力を擁護するとすれば、想像の言語の極限において、花というのはどこの土地にも帰属するが、どの土地の部分になり得ないということを教える知だろうかなどと勝手に考えている。類似性の想像力によって、語られなかった変な構造体と、見られなかった変な構造体との不可能な出会いが主宰する、そういう時代と知があったんだと証言しているのか、博物学は。) 近代の経験は、大航海時代からはじまるといわれます。その時代にあってなお、全知全能でなければならない、聖書の記述があったのです。だがそこに全く記されない動植物が次々と発見されてくるのですね。そんな無秩序の時代に、一見もっともらしく整然と整理分類した知の形で、勝手なトンデモナイ無秩序を以って対抗したということを物語っていた、と、博物学は20世紀からはそうみえるといか、そのようにみたいということでしょうか。問題となってくるのは、博物学は何かではなくて、だれが博物学を語ったのか?を問うこと。知識が知識の名をもつたねに何が要請されるかという問題提起をもって、博物学に知を呼び出したのはフーコでした。フーコが博物学を意味づけたという点で、はじめて博物学について語られることが可能になったということができます。そしてここで考えたいと思うのは、彼の仕事の翻訳を通じて、バブルの時代はこの博物学の時代に共感したことは興味深いとおおもいます。この時代は色々なタイプの男性が出てきたのですね。それこそ、語れられなかった男性、見られることがなかった男性が現れてきたのです。だけれど、バブル時代はそれほど無秩序ではなかったので、商品世界が定位するという秩序の退屈極まりない方向に、プチブル的に何でもかんでも比較することで何かを語ったつもりになっていたそんな欲望に絡みとられていってしまったとき、男性像もナルシステイックに、つまりナショナルなものにもどされてしまったという感じでした。(博物学の大いなる想像は、90年代以降、今日では存在しない島に所有権を主張するという類のナショナルな想像の共同体の側に堕落した感がある。見たことがないあり得ない土地に自己同一化するという最悪の言語に包摂されてしまった?21世紀の博物学は不可能なのか?)

だれが博物学を語ったのか?

‪大博物学の時代の想像で書いた動植物は教育上良くないという理由で大英博物館にもあまり展示されていないらしいのですが、これに怒っていた人がいたが、博物学の真面目さというか不真面目さというべきか、ヤバさみたいなものをあえていえば、あり得ない土地にあり得ない花が咲いている世界を注釈学者みたうにそのままに受け入れて称えてしまうというか。(博物学の大いなる想像は、今日では存在しない島に所有権を主張するという類のナショナルな想像の共同体の側に堕落した感がある。あり得ない土地に自己同一化するという...。)

あり得ない土地にあり得ない花が咲くという博物学の想像力を擁護するとすれば、想像の言語の極限において、花というのはどこの土地にも帰属するが、どの土地の部分になり得ないということを教える知だろうか。そういう時代と知があったんだと証言する。博物学は、大航海時代からはじまる、全知全能でなければならない、聖書に全く記されない動植物が次々と発見されてくるという無秩序の時代に、一見もっともらしく整然と整理分類した知の形で、トンデモナイ無秩序を以って対抗したということを物語っていた、と、20世紀からはそうみえる、そのようにみたい。だれが博物学を語ったのか?バブル時代はこの博物学の時代に共感したとおもう。のです。実際にこの時代は色々なタイプの男性が出てきました。だけれどバブル時代はそれほど無秩序ではなかったので、商品世界が定位する秩序の退屈極まりない方向に、プチブル的に何でもかんでも比較することで何かを語ったつもりになっていたそんな欲望に絡みとられていってしまったのかな。