人間全体の視点と人間の内部的視点を切り離せない

人間全体の視点と人間の内部的視点を切り離せない。祭祀体系と官僚機構の両者は共に国家を誕生させたと考えると、この視点から言えることは、こういうことだろうか。人はどこからきてどこへいくのかと未来を思い出すことによって語り得ないものを語るという一線を超えた過剰に古代的な祭政一致的国家の理念像が呼び出されるとき国家と共に崩壊するのは、官僚的合理支配である。歴史修正主義の政権は、なにかどうも、伊勢サミットを契機に一線をどんどん超えてしまってきたという感じである .

注釈学

「根ざすのが人間性の完成である」と言い切る教説が自ら根ざす神の如き統一された抽象的他者像は、近世の原初的経典の連続性を以て書く注釈学にとって、大き過ぎる同一性である。それは、多様性へ行く学びの要請からすると、価値のない、近代が自らに適合する為に拵えた余計なもの

根っこなしをたたえる

根っこ無しとは外から影響を受け易い不完全性のことで、たとえば、ロンドンに滞在すればそれっぽいイギリス英語を喋るし、ダブリンに帰ると周りに吃驚されてそれっぽいアイルランド英語を喋るというこの不完全さについては連続性で考えれば足りるし、この身近な傍らから連続性の思想を構築していくことだってできるかもしれないのに、しかし同一性と起源で考えていこうとするから、(ジョイスが嘲笑う)完全をずっと探し続けて遠くまでいかなければならなくなる

思考は二種類ある

思考は二種類ある。同一性は事物におけるものとして根拠を最初の思考に与える。また、同一性を前提にメタフィジカルな思考も構成できる。だがメタフィジカルな思考を再び同一性の対象にすることはレベル的に不可能である。同一性を前提できても根拠づけられないのは、ナショナリズムが不可避的に完成しないのと同じで、ここからはじめて普遍主義にチャンスがある。たとえば日本語における同一性を前提できるかもしれないのだし、そうして構成されるメタフィジカルな思考は可能であるといえよう。だけれど結局それは同一性に根拠がないことを示すことになるし、と同時に、不可避の他者を示すことになるのである。

ニーチェの言葉から読み解く

‪Mißtraut Allen, in welchen der Tribe, zu strafen, mächtig ist ! F.Nietzsche, Also sprach Zarathustra

「ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!」(ニーチェ)。この言葉ほど共謀罪を通す政権をとらえた言葉はない。恐らく、レッテル貼り「反日」もそんな衝動

寸劇

安倍「自民党総裁としての考えは読売新聞に書いてある。何か?」

梟猫「ホー、あなたのその新聞には何も書いていないということですかニャ?」

安倍「いいから、洗剤セットだ、ほら。半年契約にしておくからな」

「性は生の質なり」(子安宣邦、徂徠学講義「弁名」を読む 第十一講)

‪性は生の質なり‬

‪ ‪・性とは生の質なり。宗儒のいわゆる気質なりものはこれなり。その性は本然有り、気質有りと謂うものは、けだし学問の為の故にこれを説く。また孟子誤読して、人の性は皆聖人に異らず、その異なる所のものは、気質のみと謂い、ついに気質を変化して以て聖人に至らんと欲す。もしただ本然のみにして気質無からしむれば、すなわち人人聖人なり。何ぞ学問を用いん。またもしただ気質のみににして本然の性無からしむれば、すなわち学ぶといえども益なし。何ぞ学問を用いん。これ宗儒の本然・気質の性を立つ所以なり。然れども胚胎の初め、気質すでに具われば、すなわちその本然の性なるものは、ただ天に属すべくして、人に属すべからざるものなり。また以て理は局せる所あることなく、気質の局せる所といえども、実に局せざる所のもの有りと存すと為せば、すなわち禽獣と人と何ぞ択ばん。故にまたこれを正通・偏そくの説に帰す。しこうして本然の説終に立たず。妄説と謂うべきのみ。‬

‪性はよく移る‬

‪伝に曰く、「人は天地の中を受けて以て生ず」と。詩に曰く、「天 ()民を生ず。物あれば必ず則有り。民のいをとる。この懿徳を好む」と。孔子これを釈して曰く、「物有れば必ず則有り、民のいをとるや、故にこの懿徳を好む」と。文言に曰く、「利貞とは性情なり」と。大伝に曰く、「これを成すもの性なり」と。これみな古人の性をいうものなり。合してこれを観れば、明らかなること火を観るがごとし。けだし霊は頑の反なり。然れどもまた宗儒の「虚霊不昧」の謂に非ず。中は偏の対なり。然れどもまた宗儒の「不偏不い」の謂に非ず。みな人の性の能く移るを指してこれを言うなり。これを中に在るものの持って左すべく、以て右すべく、以てまえにすべく、以て後ろにすべきにたとうるなり。物とは美なるを謂うなり。美にして必ず倣効するは、これ人の性なり。これまたその善く移るを言うなり。孔子また「上知と下愚は移らず」と曰うも、またその它はみな善く移るを言うなり。貞とは変ぜざるなり。人の性、変ずべからざるを謂うなり。「これを成すものは性」とは、その成就する所、おのおの性に隋いて殊なるを言うなり。‬ ‪人の性は万品にして、剛柔軽重、遅疾動静、得て変ずべからず。然れどもみな善く移るを以て性となす。善に習えばすなわち善、悪にに習えばすなわち悪なり。故に聖人、人の性に率いて以て教えを建て、学びて以てこれを習わしむ。その徳を成すに及びてや、剛柔軽重、遅疾動静は、またそのおのおのその性に隋いて殊なり。唯下愚は移らず。故に曰く、「民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず」と。故に気質は変ずべからず。しこうして()の九徳、周の六徳は、おのおのその性を以て殊なり。あに然らざら#にゃ。‬

‪先王の教えは、詩書礼楽なり。たとえば和風甘雨の万物を長養するがごとし。‬‪万物の品殊なりといえども、その養いを得て以て長ずるものはみな然り。竹はこれを得て以て竹を成し、木はこれを得て以て木を成し、草はこれを得て以て草を成し、穀はこれを以て穀を成す。その成るに及びてや、以て宮室・衣服・飲食店の用に供して乏しからざるは、なお人の先王の教えを得て以てその材を成し、以て六官・九官の用を供するがごときのみ。そのいわゆる善に習いて善というも、またその養を得て以て材を成すを謂う。これを豊年の穀は食らうべきにたとう。悪に習いて悪というも、またその養を失いて以て成らざるを謂う。これを凶歳のひは食らうべかざるにたとう。すなわち何ぞ必ずその気質を変じて以て聖人に至るを求めんや。これ它無し。宗儒、聖人の教えに循わずして、妄意もて聖人たらんことを求む。また先王の教えの妙を知らず、すなわちこれをその臆取りて、「持敬」「窮理」「天理を広めて人欲を去る」の数種の工夫を造作して、遂に以てその本然・気質の説を立つるのみ。仁斎先王の活物・死物の説は、誠に千歳の卓識なり。故にその言終に未だ‬ ‪明ちょうならざるものは、あに惜しまざらんや。‬