アジアの多元主義

なぜ安倍はあんなに大きな顏をしているのか?なぜ自衛隊は平然と海外へ出て行くの?私はプロではありません。間違いを恐れずにいうと、これは解釈改憲の容認?自衛隊を海外に出すとした解釈改憲が現実化したこの現在を問題にせず、改憲に対しては憲法が守られている現状を前提に拒否する?これは矛盾ではないかという指摘があります。解釈改憲への迎合が起きているならば問題です。自衛隊が海外に出ることを許さず、対策として、米中関係によって周縁化され危機に直面し得る安倍政権にたいして、平和憲法を利用して中国との関係改善の要求に全力を尽くすときが今ではないでしょうか。アジアにおける民主主義とは何かを話しあうこと。困難でしょうが、この対話がアジアの多元主義の方向づけを為すと同時に安倍政権の実質的敗北となるに違いありません

物の見方について

敢えて言うのですが、『‪教育勅語』に反対する人は、それを推進しようとしている人と同じようなことを言ってるように聞こえてしまうのです。口先では反対しているけど、裏で賛成しているんじゃないかと疑うことも。問題なのは、近代から近世をみる方向性がどちらにも自然に共有されている前提ですね。近世から近代をみてやろうという方向性がないのです。それでは物の見方を見直すことができません。『教育勅語』の近代を相対化できません。物の見方を見直すのが難しいのは物の見方がネイティブ化しているからと子安氏は問題提起します。物の見方は言語に住んでいます。不可避の他者を見出すのが難しいとしたら、その理由は言語が物の見方と共にネイティブ化しているから。ネイティブ化‬された物の見方を以て、物の見方のネイティブ化を推進した『教育勅語』を批判できるのかということについてまだ誰も問題として指摘していません。

吉本隆明

吉本隆明親鸞も理解できない。吉本と彼が読む最後の親鸞ならばそこから理解が始まる。「親鸞が、<知>の頂きを極めた所で、かぎりなく<非知>に近づいていく還相の<知>を説いている」といわれるように、二極の間ー党派と大衆ーに存在している最後の吉本を理解できるだけだ

階級

チョムスキーがどこかで書いていたが、アメリカはずっと「無階級社会」という幻想を抱えているらしい。だが、フェミニスト系論客がトランプを支持する階級の存在を分析するようになったのである。われわれ学生にルカーチを読ませた労働法ゼミの教授の自問自答の言葉を思い出す。敗戦の荒廃からこの国を豊かにするのだというおもいは階級意識におけるものとして成り立っているといえるのか?古典ギリシャ語の文献をもち現在ヒュームの現文を読んでいて、最上階にある総評の事務所から眼下のデモの様子を眺めている自分はその階級に属していないにもかかわらず、階級について語ることができるのか?‬ルカーチからみて、ジョイス「ユリシーズ」には「階級意識」が欠如していて、ブルジョア的意識を反映した破片という評判の悪い非難がある。たしかにベンヤミンと同じものを見ているが、意味づけが全然ちがうというか。これでは、社会的存在は意識を決定するという公式的適用という感じもしたのだけれど、かれの文学に現れた階級意識という問題意識の立て方は意味がないわけではなかった。ただそれは、国民文学に現れた階級意識の存在を問うべきだったと考えるようになったのは、津田左右吉を読むようになったからかもしれない。階級についての意識の問題は、昨日の講義で言及された石田梅岩によるものだけれども...

二つのヨーロッパー アイルランドのヨーロッパ、日本のヨーロッパ

二つのヨーロッパ ー アイルランドのヨーロッパ、日本のヨーロッパ わたしはジョイスとベケットアイルランドをみたいとおもった。またEUというものをそのアイルランドからみたらいったいどのようにみえるのか知りたいおもった。それは、明治という時代から日本人をとらえてきたフランスとドイツとイギリスを中心とした帝国主義時代のヨーロッパ中心主義を相対化することができるように思えた。EUのアイルランドからみたEUは、マイナー言語の公用語化に象徴される文化多元主義、そして社会民主的方向性を以てヨーロッパの外の南北問題を解決しようとする理念をもつ。ヨーロッパは、ユーロのEU内部に現れた南北問題を解決せねばならないが、オーストリア、イタリア、北欧そして今回のフランスの選挙結果をみるかぎり、トランプと英国の一国主義の方向に限界をみているようだ

『フィネガンズ・ウエイク』とはなにか?

『フィネガンズ・ウエイク』とはなにか?

その全体像を公式的に言ってしまうのは躊躇いを感じるが、「第一部 両親の書」は貴族の世界が表現されていると私はおもっている。「第ニ部 息子たちの書」では僧侶の世界がえがかれるのだ。貴族の世界が体現する戦争の原因となる報復の互酬性が終わり、僧侶の世界におけるものとしての天における超越性が始まるのだ。だけれどこの超越者は大き過ぎるのだ。そうして、必然として、「第三部 人びとの書」では民衆の世界が呼び出されることになる。貴族における従属物としてあった王と民衆とが台頭したのは、貴族同士の争いが招いた彼ら自身の没落によってである。王と民衆が直に結びつく。王は『ユリシーズ』ではブルームだその役割を演じたし、父の時代のパネルの後のジョイス自身であることをみると、それは文学的王(チャンピオン)としての市民である。「第三部」において人間全体の視点と人間の内部的視点を切り離せない。ジョイスにおいて問題となってくるのは、人はどこからきてどこへいくのかと未来を思い出すことによって語り得ないものを語るという一線を超えた過剰に古代的な祭政一致的国家の理念像が呼び出される復古主義の政治をいかに解体するかである。「自己で決めた亡命」の戦略もそれほど勝ち目はないが、ジョイスは外部的位置を以て、国家と時代と対等な世界を書こうとしたことは確かである。ジョイスの文学的世界はstóry-tèll-erが要請される。‪stóry-tèll-erが語りかける、人類的河として表象されるordinary people も要請されている。‬stóry-tèll-erは、宇宙に散在する隙間を厳密にコントロールするこだわりを嘲笑う、人間世界と等価の物語素を構成できる。とりあえずその場で手に入る古くて汚いものを利用すればいいが、物語に再び孤立する人が出てこないように気配りするアマチュア精神が要請されるということだろう