物の見方について
敢えて言うのですが、『教育勅語』に反対する人は、それを推進しようとしている人と同じようなことを言ってるように聞こえてしまうのです。口先では反対しているけど、裏で賛成しているんじゃないかと疑うことも。問題なのは、近代から近世をみる方向性がどちらにも自然に共有されている前提ですね。近世から近代をみてやろうという方向性がないのです。それでは物の見方を見直すことができません。『教育勅語』の近代を相対化できません。物の見方を見直すのが難しいのは物の見方がネイティブ化しているからと子安氏は問題提起します。物の見方は言語に住んでいます。不可避の他者を見出すのが難しいとしたら、その理由は言語が物の見方と共にネイティブ化しているから。ネイティブ化された物の見方を以て、物の見方のネイティブ化を推進した『教育勅語』を批判できるのかということについてまだ誰も問題として指摘していません。
階級
二つのヨーロッパー アイルランドのヨーロッパ、日本のヨーロッパ
『フィネガンズ・ウエイク』とはなにか?
『フィネガンズ・ウエイク』とはなにか?
その全体像を公式的に言ってしまうのは躊躇いを感じるが、「第一部 両親の書」は貴族の世界が表現されていると私はおもっている。「第ニ部 息子たちの書」では僧侶の世界がえがかれるのだ。貴族の世界が体現する戦争の原因となる報復の互酬性が終わり、僧侶の世界におけるものとしての天における超越性が始まるのだ。だけれどこの超越者は大き過ぎるのだ。そうして、必然として、「第三部 人びとの書」では民衆の世界が呼び出されることになる。貴族における従属物としてあった王と民衆とが台頭したのは、貴族同士の争いが招いた彼ら自身の没落によってである。王と民衆が直に結びつく。王は『ユリシーズ』ではブルームだその役割を演じたし、父の時代のパネルの後のジョイス自身であることをみると、それは文学的王(チャンピオン)としての市民である。「第三部」において人間全体の視点と人間の内部的視点を切り離せない。ジョイスにおいて問題となってくるのは、人はどこからきてどこへいくのかと未来を思い出すことによって語り得ないものを語るという一線を超えた過剰に古代的な祭政一致的国家の理念像が呼び出される復古主義の政治をいかに解体するかである。「自己で決めた亡命」の戦略もそれほど勝ち目はないが、ジョイスは外部的位置を以て、国家と時代と対等な世界を書こうとしたことは確かである。ジョイスの文学的世界はstóry-tèll-erが要請される。stóry-tèll-erが語りかける、人類的河として表象されるordinary people も要請されている。stóry-tèll-erは、宇宙に散在する隙間を厳密にコントロールするこだわりを嘲笑う、人間世界と等価の物語素を構成できる。とりあえずその場で手に入る古くて汚いものを利用すればいいが、物語に再び孤立する人が出てこないように気配りするアマチュア精神が要請されるということだろう