‪「凡そ思慮無くして動く、これを情という。纔に思慮に渉るときは、即ちこれを心と謂う」

‪「凡そ思慮無くして動く、これを情という。纔(わずかに)思慮に渉るときは、即ちこれを心と謂う」(伊藤仁斎『語孟字義』)

• 詩を読んでいるような...。子安氏の評釈は、「思慮に渉らない気持ちの動きを『情』とする、と仁斎の説を訳してみた。そこから他者に対する思んばかり含んだ気持ちの動き、すなわち『心』として『四端の心』が解されてくる」という。この17世紀の思想家の言葉を読むと、人間の思慮と情と心を人間の有限性に即して考えているのがわかる。問題となってくるのは、現在まだ、17世紀を実現できていないということ。新しい普遍主義が非常に悪い形で模索されている、難航中のグローバル・デモクラシーの時代に、白紙の本に一行一句、国と時代と対等な漢字仮名交じり文を綴っている

共謀罪

‪政府は共謀罪を被告とした法廷に立つ。共謀罪の犯罪を些細なものとしてこれを弁護する。「犯罪を未然に防ぐプラスを考えれば多少の冤罪は仕方ない」、「国連特別調査官はただの『個人』だ」、「議論され尽くした」 のだからこれ以上なにも言うな、と。「一般人に適用されない」から大したことではない、「治安維持法」と比べるのは大袈裟だ、と。だがこうした説得がわれわれにおける恐怖というものを益々大きくしていくのである。‬

狡猾な"ナショナリズムの毒"

知識人のなかには、知識の量は凄いが、知識の質が頗る悪いのがいる。自己啓発のおじさんたちはそういうのが大好きだ。佐藤なんとかかいう左巻きの言論人もそういう類の知識層なのか、ロシアについてだけでなく、知ったかぶりしてアイルランドについてテキトーなことを喋るのは誠に迷惑であるよ。アイルランドアイルランドであるために要請されるものは何か?という視点が全然欠落していることに気がつかなければいけない。スコットランド人の言葉であるが、狡猾な"ナショナリズムの毒"とはこういうものだ。初めにナショナルな入り口に行くとしても、対抗イギリス的なものが英国貴族の価値観に負う限界に直面したとき、それを棄てずに尚そこに依拠するとしたら、ゲームの規則を変えるしかない。固有なものはないとする出口、人類の普遍主義へ出るのだ

「祭政一致」論の復活?

安倍政権と日本会議の『教育勅語』の読みは、彼らの国体的「祭政一致」論(「国家祭祀」と「個別宗教」の分離をいう)の解釈にもとづく。問題としなければならならないのは、近代の「祭政一致」論を根拠に、伊勢サミットにおいて指摘されていたような「政教分離」に反した違憲行為を反しないと開き直っているという可能性があるという点である。「祭政一致」の近代は、近世の視点を以って批判的に相対化できる。近世思想の言説(荻生徂徠本居宣長平田篤胤、後期水戸学)を理解してはじめて、安倍政権における「祭政一致」論の復活を批判できよう。そのとき、切り離してとらえてはいけない外部(中国、東アジア)と内部(徳川日本)の関係があること、外部の思考をともなわないと、固有の起源というものを自然に表象してしまうこと、こうした思考のあり方を学ぶのである。

思想と詩

‪認識は常にはっきりした目的を追及しているが、‪

目的が達成されると終わる。‬

‪これに対し、思考は、その外部に‬

‪終わりもなければ、目的もない。‬

‪結果を生み出すことさえない。‬

‪芸術のなかで思考に一番近いのは‬

‪たぶん詩だとハンナアーレントはいう。‬

‪だが詩とて自らが消滅することが‬‪ないようにと、

なんとか肉体が触れるものを‬必要とした。

墓標のように、‬詩は触れることができるものに定位して、

永遠性をもつ。ものとしての言葉に化ける。‬

永遠に記憶されるために。

そうして詩に興り、礼に立ち、楽に成る。

だが永遠とは何か?‬それが究極の問題である。

‪ヨーロッパの神性という永遠の思想は、

アジアのわれわれを蹟かせる。‬

‪だれが永遠をもとめるのか?‬

‪愛と意志と記憶である、‬

アウグスティヌスは言うだろうか。‬

‪理に尽くされない理の外部にあって、‬

‪究極的に依るべきもの。‬それが永遠?

‪では記憶とは何か?愛が裏切られたり意志が挫かれたり、

‪この記憶のなかに囚われる

‪と同時に、記憶というものによって‬

‪魂が救われるというか?‬

あえて忘却の危険に投げ入れて

意味が化けて置き換えられることを待つ?祀る?

荻生徂徠の『鬼神』論を読む。‬

‪肉体が地に行って消滅してしまうが、‬

‪魂は天へいくという。魂は消滅せずして‬

‪立つためには、消滅しないものに化ける、言葉に?

否、散逸した言葉は‬

ほんとうにそれほど消滅しないように‬

‪あつまってくれるものなのか?

永遠性の観念の傍らに、ものである故に

よく移るものとしての言葉の曖昧性がある

市井の人として

オルタナティブファクト」("替わりの事実")も、一概に悪いとはいえないよ。「君子」という位ある官吏を宛名にした『論語』を私の如き世の落ちこぼれがそのまま読んでも仕方ないところを、世の中にNo!という市井の人としてのカオス的あり方を四百年の息と共に考えさせてくれるのだからね