セザンヌのサント・ヴィクトワール山を読む

セザンヌのサント・ヴィクトワール山を読む

‪サント=ヴィクトワール山を見にAix-en-Provencenにやってきました。だけれど実際にこれを見ても、1870年代から取り組んだ'セザンヌのサント=ヴィクトワール山'に動かされるような感慨は起きませんね。どうしてもこの山じゃなくともよかったんじゃないと思うのは、このわたしがポストモダンの時代のなかにいるからそういう物の見方しかできないのかもしれません。これとは別の見方をするのは難しいということなのでしょうか。では、この山しかなかったという起源を強調するようなモダニズムの物の見方に再び帰っても仕方ないでしょう。アイルランド時代のフィレンツェの旅のとき、セザンヌはジオットの橙色とか緑色にたいする思いー信仰に近いものーを復活させようとしたという話を読んだことがあります。セザンヌは、反時代的にリアリズムを喚起するような空間と量と思考に依拠することによって、意識とイメージと質と非思考を生みだしていたということを考えています。‬

セザンヌのサント・ヴィクトワール山を読む

セザンヌのサント・ヴィクトワール山を読む

‪サント=ヴィクトワール山を見にAix-en-Provencenにやってきました。だけれど実際にこれを見ても、1870年代から取り組んだ'セザンヌのサント=ヴィクトワール山'に動かされるような感慨は起きませんね。どうしてもこの山じゃなくともよかったんじゃないと思うおもうのは、わたしがポストモダンの時代のなかにいるからそういう物の見方しかできないのかもしれません。これとは別の見方をするのは難しいということなのでしょうか。では、この山しかなかったという起源を強調するようなモダニズムの物の見方に再び帰っても仕方ないでしょう。アイルランド時代のフィレンツェの旅のとき、セザンヌはジオットの橙色とか緑色にたいする思いー信仰に近いものーを復活させようとしたという話を読んだことがあります。セザンヌは、反時代的にリアリズムを喚起するような空間と量と思考に依拠することによって、意識とイメージと質と非思考を生みだしていたということを考えています。‬

サルトル

‪ヨーロッパにおけるサルトルの復活がいわれていて、それはポストコロ二アリズムからの読み直しをいうのであろうが、そこで「他者」として指示されているのは、アフリカ・アジア・ラテンアメリカにおいて読み出される反近代のあり方である。わたしはそれに反対しない。だけれどわたしはその手前で、『存在と無』が「他者」にいかに接近していくのかを読んでみたいと思うのである。最後まで読み通すことができない。サルトルは「対自的」存在と「他者」との問題をいかに書くのか?「存在」は「本質」に先行している。この方法論は至るところに書いてある。サルトルは「存在」の問題から離れることなく、ここから「他者」の意味も考えなければならない。哲学においては、"これ"を否定するとか"あれ"を否定するとかよりも否定の力の普遍が要請されているように、存在を包摂するような関係の一般性よりも<この関係>という多様性が要請される。対他的にここからしか、他者と均くもつ自由の意味を考えることができないと言っているように読めるのである、全体性の真理に絡むとられることなく、というか。‪‪わたしの読み間違えをおそれずにいえば、知識人というものは「存在」について語ろうとすれば、「他者」の構造に連なる「対自的」「対他的」は切り離してはいけないのである。‬

「人は自らの文化から自由たり得るか」

人は自らの文化から自由たり得るか (Peut-on se libérer de sa culture ?) 

 

えー、フランスの高校生はこんな難しいことをかんがているのか?難しいが、大切な問題である。私などは間違いなく落第だろうが、私なりにこの問題の解答を考えてみよう。ヨーロッパ普遍主義の根底に、神話と歴史の文化がある。ロシア一国社会主義とツアーリズム。中国官僚資本主義と帝国儒教朱子学)。そしてアメリカ新自由主義新保守主義の根底に、’夢をみましょう’の夢の文化がある。民主主義とは両立しない方向で、神話と歴史、皇帝主義、朱子学、夢、こうした文化が、グローバル資本主義の「帝国」知を規定していく。人は自らの文化からそれほど自由たり得ない。「帝国」知から自由であることが難しいかもしれない。だからこそ、人間が人間であるための理念が要請されるのだとおもうよ

夢 (dream)

ジジェクによると、ヨーロッパ人は、夢(dream)という言葉をアメリカ人ほどには口にしない。かつて、ハリウッド映画は'夢の工場'と呼ばれた。現在は、トランプの’アメリカン・ドリーム’の奪回の夢。目覚めは死、夢の生産をやめてはならぬ。たんに新自由主義新保守主義ではなく、その根底に、人は自らの文化から自由たり得ない’夢をみましょう’の文化がある

私は東浩紀の「観光客」になることを拒む理由とはなにか?

これからフランスに行く四つ理由を言うと、

第一に、退屈しに行く。

第二に、軽蔑されるために行く。

第三に、「美しい国」で愚かになる自身を嘲笑うために行く。

第四は、東浩紀の「観光客」=「互いに尊重し合う世界」という「帝国」知の文化的教説に騙されないように単純に外へ行くの

‪私は東浩紀の「観光客」になることを拒む理由とはなにか?それは‪ファシズムが広がる理由はなにかを考えることと同じなのです。国の教育レベルの問題として説明しきれません。私はこのことを考える必要があるとおもっています。政治は批判されるが、文化は批判されないということを、このことです。たとえば、「共謀罪」の政治は批判されるが、東浩紀の「観光客」の教説ー「帝国」知ーは批判されることはないでしょう。そして現在の問題とは、思想家は、批判を受ける知識人になろうとするよりは、批判されない文化人になろうとすることなのです。そしてファシズムは文化を住処とするとき一体何が起きてくるのでしょうか、それは歴史を参照すればわかることではないでしょうか。

フレームワークとクローズアップ

‪ ‪ ‪ ‪ 世の中の意味は、フレームワーク(構造)とクローズアップ(「このものである」) から成り立っている。意味を与えるためには、この二つを切り離してはいけない。一緒に働く必要がある。クローズアップしている(「このものである」)が、国会にたいする政治責任フレームワーク(構造)をともなわないのが、安倍ちゃんの「ぼくちゃん何も悪くないもんねー」。フレームワーク(構造)はあるのに、格差によって困窮している人々にクローズアップしている(「このものである」)かといえば、全然できていないのが、安倍ちゃんの「一億総活躍」。グローバル資本主義にたいする新しい普遍主義の形が模索されている現在、安倍ちゃん教育勅語の「美しい国」では、グローバル・デモクラシーのフレームワーク(構造)は不在だし、アジアへの共感からなるクローズアップがある(「このものである」)かといえば、何も為されない