能楽は、シテ(幽霊や神霊)とワキ(生者)の出会いで、ワキに観客の存在を入れるかについてかんがえるのは面白いのでありますが、そのこととは別に、知識のないわたしのようなものでも、シテは操り人形みたいに僅かに動くとき、魂が動くのが見えるというか、魂のその動きが、近代演劇の声みたいに全体化されたり部分化されることないのが、すごいなとおもっています。(読むことのできない死に切った絶対の過去に出会うときにゆれる魂のもつれというか)。と、この際見当外れのことを言ってしまうと、シテがぐらつきながら動くその姿から、ひとの溺れる姿ー自殺でなければ、他者の助けをもとめている究極の姿ーを想像します。この脆く消えゆく運動からうまれてきた、ヒチコック映画が近代の観客に向かって繰り出した堅固なイメージのことをおもいます、能楽と映画それは偶然の一致でしょうか?
ゲームの規則は変わったのか?
ロンドン時代に毎日感じた不安が一体どこから来るのか私は知っています。いくらこの国の政治が残念なものでも、英国みたいに戦争していなかったのです。敢えて書きますが、ゲームの規則が変わりました。護憲派は改憲に反対しながら米国と共同の北朝鮮に対する戦争と等価の威嚇をしているのに知らんふりするのは(どうもそう見える)、安倍内閣の解釈改憲を追認し始めたということでしょうか。そうであれば、戦争する自衛隊を国外に出さないためには、国会の稲田防衛大臣に対する追求が最重要課題になってきたわけですけれども、ここでも野党は負けることはないでしょうが、今までの形が繰り返されるならば果たして本当に勝てるのでしょうか?
みんなマイノリティーに成ること
みんなマジョリティーであることは問題があり実際に問題があった。みんなマイノリティーに成ること。人類知の教養に平等にアクセスできるようになっていなければ、例えば貧富の格差があると、皆少数派になれない。その平等を保障する方向で国にできることが何かということだね
リュミエール
『「光 (リュミエール)」という名前だった。彼らは瓜二つだったので、それ以来、映画を作るためには、いつもリールが二つあるのだ。一つは充たされ、一つは空になる。まるで偶然であるかのように、ヴィデオでは、左側のリールを奴隷、右側のリールを主人と呼ぶ。ああ、わがカール!ああ、わがローザ! 』
ゴダールのナレーションは、二つの円の間の関係について語っていて、そこで、互いに等価である円同士なのに、一方が奴隷、他方が主人と呼ばれるのは何故かと問うている。ここで言われていることをそのまま読むしかないわけで、付け加えることもないのだけれど、これを読んだわたしの想像の中のことを言うと、比類なく単純な形式をもつ円と複雑な表象をもつ円とが互いに隣りあって並んでいる。両者は互いに必要としていて、どちらもどちらに依拠するが自立している。ところが前者が下、後者が上という配置をとると、それは近代である。複雑な表象をもつ円(現在)が、自己のために、単純な形式の円(過去)の意味を物語ってしまうのである。常に、現在は過去から単一的直線上に発展してきたというふうにである。過去から、現在をみてやろうということがゆるされなくなる。過去から、現在が失敗していると言うことが難しくなる。つまり現在の円の内部から現在とは別の過去の円を見るのが非常に難しいのだ。それが近代なのだ。