フーコ『言葉と物』

フーコ『言葉と物』は世界と共にリゾームになる本。『言葉と物』は世界の脱領土化を確かなものにした。世界は本の再領土化を行い、アジアでポスト構造主義思想を読む意味を問うた。今度は本はそれ自体、アジアの中で自らを脱領土化する。本は江戸思想の近世から行う日本近代の思想の解体を実現できるか

『論語』

‪現代にあってモーツアルトは簡単すぎてかえって演奏が難しいという。是と比べたいのは、『論語』"為政第二"で、ここから簡単すぎて読めなくなる。「天下の儒者たちの語る言葉がただ高遠であって、卑近でないのは、彼らに徳がないからである」と伊藤仁斎が言うようには...‬

‪対話による言語を学ぶのはとりあえず思惟だ。思惟は最初に誰がそれを言ったかを読む。思惟と切り離せないもので、行いによる言語を学ぶのは身体。身体は卑近を読む倫理だ。卑近も、高遠と反対の方向から来る理念的構成物だから、その解釈はそれほど簡単にそこに無いと知って愕然とする‬



『論語』

‪『論語』の仏語訳者が自らについて語っているが、文化大革命への失望が契機となった。元々はフランス支那学研究者だった。ヨーロッパからするヒューマニズム的解釈のどの文も異論がない。だけれども、漢字が一文字も記されない『論語』の本は可能なのか?だからといって漢字と私が指示しているものは同じではない。「漢字文化圏」東アジアにおいて、縦書きで読む漢字を失いつつある (日本の新聞と国語の教科書はまだ縦書き)。思考しかない、漢字なき『論語』があり、他方で、漢字はあることはあるが、漢字を明示することによって逆の方向から思考の不可能性(不可避な他者性)を隠蔽しはじめた『論語』的教説がある。この二つの本の真ん中に存在している、<白紙の本>としての『論語』は、ヨーロッパとおなじ大きさをもっているにもかかわらず、アジアの端っこの国でこれが意味を以てある場所をさがしだせないままでいる。

ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタインについて彼の人生の真ん中にあたかも「立ち入り禁止」の標識が立っているかの如く、「前期」「後期」というふうに整理される。年表の知識として役立つ。だけれど私の場合、他者の手をとって渦巻きの方向に沿って「中へ」歩く記号の形式性と、その他者と共に渦巻きに沿って「外へ」歩く日常言語の意味世界とを切り離してしまってはやっていけなくなるだろう‬なあ。わたしはこのことを黒板に書いておこう

「美」「醜」

‪一度物の見方ができあがってしまうと、その中にあって、それとは別の、異なる見方をするのが大変難しくなる。このことは思想にかぎらない。「美」と「醜」の見方についてもいえる。エーコは、アフリカの仮面を前にしたとき、「美しい」のか「醜い」のかわからなくなるとき、自明としていたヨーロッパ近代の二項対立が崩れているときなのだと示唆する。さてジュンヌ・モローはコメデイーフランセーズの舞台から映画の撮影スタジオへ初めて行ったとき、いきなり、身体の全部を覆うほどの過剰なドレスと装飾品が与えられたという。びっくりした。当時の衣装スタッフは、「顔が醜いから隠そうとしたのではなかったか」と思い返す。「死刑台のエレベーター」から、ジュンヌ・モローは憂鬱の時代を象徴する実存の「美」となった...‬‪。演劇は偉大な伝統がありそれについては知り尽くされているが、映画はまだ未知の形式だった。戦後になって、象徴の死に依拠していくことになる映画は、60年代からは、演劇に依存しないそれから離れる方向に行くのだけれど、この偶像破壊者は50年代まだ演劇の仮面で自らを隠していた ‪ー「美」「醜」で成り立つ古典的調和が終わっていないかのように自らを‬世界に投射していた

死者のことをおもっているとき、

お風呂で揺れたときは、

じぶんが蛇になって地面を這っているのか、

蛇に呑み込まれて揺れているのか

区別がつきませんでした

ヘーゲルの近代

‪安倍のネオリベグローバル資本主義の限界を見定めてそれを止める為には、ケインズマクロ経済学の勉強が役立つ。だけど若い人達と私自身はこれだけでは十分でない。ヘーゲルの近代に対する批判の意味を考えて、近代を構成する言説としてのネオリベを相対化する外部の視点(デモクラシー)を伴わなければ‬ね