モダンとポストモダン

‪「最も儚い瞬間こそが、華々しき過去を所持する 」でいわれるような詩人の前衛的「瞬間」の制作。この高く遠くある近代を批判するポストモダンとて理念的ゆえに簡単に行かぬ。消費する「みんながアーチスト」と言うが、<起源>東京五輪に対して反時代的に、新しく作る絶望に抗するのは難しい

近代と脱近代

近代と脱近代

‪いかに、互いに離れた物同士を近づけるのか?資本主義がする低次元の水平化・世俗化に距離をとるモダニズムの前衛は、高く遠くにあるあり方からこれを行う。どんなに困難でも、孤独のつくる力のうちに、究極の出会いは、実験精神の縮約された瞬間にあるかもしれない。この特権的身振りとジェスチャーを批判する脱近代とて、それはそれほど簡単ではないのはなぜなのか?反生産的に消費する「みんながアーチスト」と言うけれども、反時代的に低く近くにあるあり方も、理念的であるゆえに、モダニズムと同じように、難しい道なのである‬

ホフスタッター

‪ホフスタッターが何を書いたかについて考えきたならば、もしそれを喋らなかったらアウトだよ。喋ったらアウトにするよ。さあどうするつもりかといわれてもな...。


ホフスタッターの言っていることを追うと、「知ること」と、その否定をなす「知らない」こととは互いに矛盾する命題としてある。と同時に、ここから構成される「わたし」において、ほかならない、この「わたし」の要請によって、「知ること」と「知らない」こととは矛盾せずに、二十年がたってしまったわけで。ソクラテスが言っていた通りで、I do not think that I know what I do not know. というところへ出てたというかんじである。‬これが<もっとも愚かなものがもっとも賢い>の証明になるのかはわからないけれどね。何とかわたしが考えることができる問題は、それが何を意味するのかである。西欧を成り立たせる対話的ロゴスが自己について語っていること、このロゴス自体を批判することを含めて議論をやめないということが、アジアからみてすごいというかなあ

芸術と衝動

法は芸術に向かって「何を表現してもいいが迷惑かけるな」と傲慢なことを言うなですね。衝動とは芸術を突き動かすもの。衝動はある領域において制限されるべきだ、などとは頭には言いえません。法は、それならばそれは芸術ではないと言うならば、何が芸術だというのはしょうか?

21世紀のヴェルディ「ナブーコ」を読み解く

ナブーコは「わたしは王の影でしかない」と嘆く。そのとき、このヴェルディ「ナブーコ」の舞台の端に、19世紀を映し出す、古代の物語で縁どられた、大きな鏡が立つようだ。空中庭園のように、オーケストラの音のうえにあらわれてくる。現実世界と共有するその形式についてサイードのようには上手く分析できないけれど、縦軸に帝国が行く政教分離の方向(バビロンとオーストラリア帝国)が、鏡の横軸に、祭祀国家の方向(シオンとイタリア)がみえるのだ。そして対角線上に、祭祀国家がどういう条件で成り立つかを観察できるような気がしている。それはこういうことだ。国家は植民地化の危機に嘆きあって権力を集中したが、問題となってくるのは、植民地化の危機がなくなった後になお、その権力集中を続けることの無理、これである。20世紀の記憶をもつ観客の為に、彼らが戻ろうとしていると望んでいるかもしれない19世紀的問題が舞台にうつしさだされているというわけだ。西欧は、首相公式参拝靖国神社をWar Shrineと翻訳する西欧は、靖国問題にある祭祀一致の危険性を日本人よりも正確に理解しているのだろう。

ジョイスが分からなくなったら声を出して読め

‪ジョイスが分からなくなったら声を出して読めとアイルランドではいわれる。「自分が-語るのを-聞く」だけだと思う?意識はそれが定位する声の内部にとどまるか。外部の世界を自己の中心に置く準備をしている。声は時間とともに、<一>的多元主義の奥を占めることはない‬

思想史は親不孝の始まり

‪思想史は親不孝の始まり。思想史は権威の解体だから。一度出来あがってしまった物の見方を相対化する思想史は、その方法を自らに適用する。思想史は自らを解体するとき普遍性の要請がでてくる。普遍性との同一化にあらず。学の普遍性がなければやっていけなくなるということ‬