ホフスタッター
ホフスタッターが何を書いたかについて考えきたならば、もしそれを喋らなかったらアウトだよ。喋ったらアウトにするよ。さあどうするつもりかといわれてもな...。
ホフスタッターの言っていることを追うと、「知ること」と、その否定をなす「知らない」こととは互いに矛盾する命題としてある。と同時に、ここから構成される「わたし」において、ほかならない、この「わたし」の要請によって、「知ること」と「知らない」こととは矛盾せずに、二十年がたってしまったわけで。ソクラテスが言っていた通りで、I do not think that I know what I do not know. というところへ出てたというかんじである。これが<もっとも愚かなものがもっとも賢い>の証明になるのかはわからないけれどね。何とかわたしが考えることができる問題は、それが何を意味するのかである。西欧を成り立たせる対話的ロゴスが自己について語っていること、このロゴス自体を批判することを含めて議論をやめないということが、アジアからみてすごいというかなあ
芸術と衝動
法は芸術に向かって「何を表現してもいいが迷惑かけるな」と傲慢なことを言うなですね。衝動とは芸術を突き動かすもの。衝動はある領域において制限されるべきだ、などとは頭には言いえません。法は、それならばそれは芸術ではないと言うならば、何が芸術だというのはしょうか?
21世紀のヴェルディ「ナブーコ」を読み解く
思想史は親不孝の始まり
思想史は親不孝の始まり。思想史は権威の解体だから。一度出来あがってしまった物の見方を相対化する思想史は、その方法を自らに適用する。思想史は自らを解体するとき普遍性の要請がでてくる。普遍性との同一化にあらず。学の普遍性がなければやっていけなくなるということ