反省 ?

小学校六年生のときにつくらされたのですが、反省するために書くけじめノートというものがありました。「あなたはけじめがない。けじめをノートに書きなさい!」と言われて、ノート全部使ってですね、「けじめ、けじめ...」の言葉を埋め尽くしたら、翌日それを見た先生はもう何も言わなくなりました。はりきって写経のつもりだったのに、喜んでもらおうと思っていたのに、反省の達人になったとおもったのに、けじめのないノート、になってしまいました。二十歳のときでしたか、反省の意味をかんがようとおもって、哲学の反省について説いた本、ヘーゲルの本を開いてみたのです。と、反省が展開しているのは、同じ概念をひたすら繰り返しているだけの無内容じゃないですか。ああこれならばかつてのけじめノートとおなじだ、わたしの反省の仕方でよかったと安心しました...なにか?

ドウルーズのカント

‪‪ドウルーズのカント ー 精緻だけれど過剰を孕んでいる、だからといって生命の論理という型に絡みとられることのない思考の柔軟性‬。そのためには、カントの古典主義とロマン主義の間にあるように、それは速度を増すために中間intermezzoに戦略的位置をとっている

Doctrine des facultés. - Les trois Critiques présentent un véritable système de permutations. En premier lieu, les facultés sont définies d'après les rapports de la representation en général (connaître, désirer, sentir). En second lieu, comme sources de représentations ( entendement, raison、imagination). Suivant que nous considérons telle ou telle faculté au premier sens, 

telle faculté au seconds sens est appelée à  légiférer sur objects, et à distribuer aux autres facultés leur tache spécifique; ainsi l'entendement dans la faculté de connaître, la raison dans la faculté de désirer. Il est vrais que, dans la Critique du Jugement, l'imagination n'accède pas pour son compte à une fonction législatrice. Mais elle se libère, si bien que toutes les facultés ensemble entrent dans un libre accord. Les deux premières Critiques exposent donc un rapport des facultés déterminé par l'une d'entre elles ; la dernière Critique découvre plus profondément un accord libre et indéterminé des facultés, comme condition de possibilité de tout rapport déterminé.


三つの<批判>は、諸要素を相互に交換できるひとつの真なる置換体系を呈している。第一に、諸能力は、表象一般の諸関係にしたがって定義されている(認識、悟性、理性)。第二に、表象の源泉として定義されている(構想力、悟性、理性)。われわれがどれかひとつの能力を第一の意味において考察するのに対応して、第二の意味における一つの能力が諸対象に対して立法行為を行い、他の諸能力に対し、それら諸能力に特有の課題を割り当てるように求められることになる。たとえば、認識能力においては悟性が、欲求能力においては理性が、そのような役割を引き受ける。確かに、判断力批判においては、構想力が立法的機能を引き受けることはない。だが、構想力は自らを解放し、その結果、あらゆる能力が一緒に、ひとつの自由な一致をなすのである。最初の二つの<批判>は、したがって、諸能力のうちのひとつによって規定された、それら諸能力の間の関係を説明するものであり、最後の<批判>は、より深いところで、諸能力の自由で無規定な一致を、あらゆる規定された関係の可能性の条件として明らかにしている。(國分功一郎訳)

人間を自らの為の手段とする戦争体制

ソ連側の記録で証言されたような人が人でなくなる人体実験。人間を自らの為の手段とする戦争体制がそれを強いた。NHKスペシャルはこの点について心の問題からアプローチするよりも、客観的に掘り下げた。構造的に、満州事変における国民の戦争拡大の要求が存在したのである。

靖国公式参拝はいつ終わるのか?

靖国公式参拝はいつ終わるのか?

五反田駅附近の食堂でのこと。直ぐ横のテーブルに来た父親が十代後半の息子に、神道とは何かを聞かせ始めた。いきなり、彼は神道は宗教ではないと切り出す。日本会議神道政治連盟と同じイデオロギーを伝える。靖国公式参拝は問題がないのは、<祭政一致>という日本固有の文化的伝統は憲法よりも上だからという。その伝統は和を尊ぶことにあるという。だから日本人はNoと言わないのだとも。それを認めた上で、ということだろうか、和を尊ぶこの国では、宗教はみんな、政教分離をしっかり守れよ、と言っていた。そうしないと、西欧で起きた宗教戦争がはじまらないとは限らないからというんだね。だけれど和を尊ぶ文化的伝統のもとで、どうして五十カ国以上の国と戦争したのだろうか?そして果たして、息子は父から一言でも神道の話を聞いたのだろうか?

「小さな人間」

‪国家であれ国民であれ、<一>を強調するか<多>を強調するかの観点の違いだけで、国民国家という全体性の論理を表現する本質に変わりない。その本質からは見えず命名もできなかったものを正当な名によって指示できた『トランスクリテイーク』は自らをグローバリズム時代の先駆的思想と考えたか?確かにカントの読みは多様体の思想を開く重要な意義をもつ可能性があった。だがカントが十分に目覚めるまえに、『帝国の構造』は再び世界史というヘーゲルの全体性の論理を呼び出しただけだった。それは「大きな人間」のための道だ。前置きが長くなったが、これにたいして、2007年の小田実が言うところでは、「小さな人間」は潜在的に「反体制」の位置に立っているという。その潜在を顕在にするのが、彼は「文学」だと考えていた。‬文学に現われる思想の問題に言及していたのだろうか、そういうことについてわたしにかんがえる力が十分にあるだろうか、正直無いとおもっているが、しかたないね、「大きな人間」ほどには時代の物の見方の内部に長く留まれない「小さな人間」の視点から考えてみようとおもっている。文学というのは、powerlessというか、脆弱さによるんだろうね、宗教とか学問または芸術と比べて、物の見方が崩れやすい

敗戦記念日

思うに、戦勝国よりも敗戦国の方が詩人がでるんだろうな。今日だけでなく毎日を言葉を書く敗戦記念日にしよう。そうでないと、そのぐらいのことにならないと、毎朝、起きたとき、みんなとなんのためにたたかっているのか自分でもわからなくなってしまったライオンのままだから