首相の解散権というのは、なんとも時代遅れの感じですね。今回安倍首相が国会を私物化していると指摘されますが、その前提として、解散権を私物化しているようにみえます。解散に国会の承認が必要です。安倍首相が平気でやっている同じことをイギリスではもうできない筈です
感想文 ー 東京演劇アンサンブルの『泥棒たち』(デーア・ローアー作、公家義徳演出)
東京演劇アンサンブルの『泥棒たち』(デーア・ローアー作、公家義徳演出)を観ました。ドイツの現在を伝えるこの芝居は、奇妙な、狼に対する畏怖と夢から始まります。思考できないものを思考しようとしているかのようなそんな始まりです。家族は解体していますが、抑圧的に、資本主義と適合し得る父長制的文化だけが残っているようですね。登場人物たちは時々自らナレーターの口調で自身を第三者的に語るとき、かれらの疎外の経験を物語っているとおもいました。芝居の最後は、アイロニーを以て、人間関係の回復の可能性が示唆されていたのかもしれません。しかし、冒頭における、狼(未知の他者)に対する畏怖と夢は消えてしまうことにならないかと私は自問しました。『泥棒たち』で問われていたのは、狼という決して消すことのできない外部の痕跡だったと考えることになりました。大変難しい芝居に取り組みましたが、役者たちはそれぞれ成長しているなあとおもいました。若い男性俳優たちはよくやりましたがもっと頑張れるでしょう。大いに期待しています。
『仁斎論語』
「徳行とは孔子の学の全体を意味する。それは言語・政事・文学の三者を兼ねている。どうしてこれを一科とすることができようか。他の三者も徳行に本づかなければ...」(伊藤仁斎、子安訳)。
昨日からわたしはこの一文を繰り返し読んでいる。「全体」は「兼」ねているというが、それはどういうことかを考えているからである。「全体」を「一科」とすることは不可能だ。「全体」を「一科」としてしまうようでは、「全体」の必ずしも構成的に語る必要がないやり方で批評する自由がなくなってしまうからか。「徳行」といわれるのは、たんなる思弁のことではなく、行いを導くそれと一体となった批評精神で、自由のあり方と深い関係があるおもうんだよな。またこのような道徳批判の意味づけは芸術批判のそれを考えさせるものである。
詩
「地下に逃げろ」と政府がいうものだから、
地下茎で地底人として生きてきた
わたしの領域が危うくなったじゃないか。
仕方ない、更に地下に行って、
最低人になるか