朱子語類の「鬼神」論

‪『論語塾』は、11月から新しく、朱子語類にある「鬼神」論を読むことになっている。大雑把に言うと、死者の魂はどこへ行くのかという話を漢文で読む講座がはじまる。知識のないわれわれに説明してくれた、鬼神をめぐる矛盾について子安先生の話を聞いて面白いと想像したことを書き留めておこうと思う。なぜ矛盾が大事かというと、まだ知識もなく説明できない。十分に勉強したあとにはっきりすることだろうが、とりあえず、いまここで、間違いを恐れずに図式的に言う。まず、矛盾というのは、テクストが読めないことを示すということである。教えることと学ぶことは相補的に成り立つ関係にある。教えることは隙間なく解釈し尽くす危険があるが、学ぶことは読めないことを学ぶ可能性がある。この可能性に、真理を教える権威からの自立(自発性)があるのではないだろうか。17世紀の仁斎の鬼神の考え方の場合のように(仁斎は鬼神を否定しないが生者について論じることが大事だとした)、教説としての真理を論じない態度をもつ学びにおいて、朱子学の呪縛から離れて、自由に、『論語』の多様な読みがひらけるのかもしれない。(ただし学は朱子の高さがなけてば遠くへ行けない)。さて死者の魂はどこへ行くのかについて朱子たちはどう考えたのか、わたしの理解している範囲で儒教の言葉をなるべく使わずに簡単にいうと、死者の魂は理という永遠なものだとみなせないのは、それが散逸して消失してしまうからである。それゆえ死者の魂は気であるとされる。朱子は死後の魂について唯物論的に考えた。しかし単純ではない。ここで問題は、魂は消滅してしまうと、祭祀儀式の意味がなくなってしまうことである。これは弟子たちにとって切実な問題だ。朱子は弟子たちに答える。魂は永遠ではないが消滅しきるまで非常に長い時間がかかると。(だからその間祭祀儀式の意味がある)。これに対しては、議論が起きる。魂がそれほど持続するならば、魂は理なのではないかと弟子たちがいう。こうして死者の魂をめぐる矛盾が展開されることになった。ちなみに、後醍醐天皇朱子を読んでいたといわれていて、まだその読みはおどろおどろしい呪いの読みだったのだろう(仏典の解釈のように意味がわからなくなったから呪術的に読むしかなくなる)。下に投稿したが、足利尊氏の館で夢窓疎石が吉野の先帝(後醍醐)の夢をみたことを告げる。祟りをなくし天下をを治めるために、天龍寺の建設を勧める。天龍寺建設の費用を捻出するために元との貿易を計画した。また天龍寺建立を機会に、鎌倉と京都に、幕府の公の寺としての禅宗寺院の五山体制が整備されたという。‬

精神の歴史に要請されていること

‪普遍主義の物の見方は、グローバル資本主義へズレてしまっている。これにどう取り組むのか?共同体を主語にもってきたのだが、「日本に希望を」も「この国を守り抜く」も一国主義にズレている。アジアへの共感が微塵もない。精神の歴史に要請されているのは、人類も共同体も切り離せない見方ではないか‬

MEMO

Picaso se posait aussi beaucoup cette question; jusqu'où puis-je aller dans la penture? Quand ils en avaient marre de peindre des paysages, il ne restait plus aux peintres qu'à se peinde eux-mêmes. Le cinéma étant un peu autre chose , ne pouvant pas se faire seul, on peut toujours montrer ce qu'il y a autour de cette solitude.J'ai toujours pensé que le cinéma était un instrument de pensée  (Godard)


ピカソもまた、絵画において自分はどこまで行くことができるのか?とよくみずからに問うた。画家が風景を描くことにうんざりしたとき、画家に残されていることはもはや自分自身を描くことでしかなかったのだ。映画はこれとはいささか異なり、ひとりで作ることはできないので、つねにその孤独な人間の周りにあるものを示すことができるのだ。わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。


ロンドンでみた、画期的なバタイユ展。「ドキュマン」誌刊行によって、シューレアリズ運動の中心をなす、バタイユの影響圏に、エイゼンシュタインは向かっていきました。ローマ時代のコインの肖像、マスク、動物の表情。「顔」に関する宇宙論的探求は、人間を中心とした従来のモンタージュ理論の「知」には収まらない、神秘主義のなにか他の惑星の異生物と交信している自動筆記的な方法でありました。シューレアリズの哲学が、限りなく、(対極の側にあるとされる)「唯物論的弁証論」に接近していくのは、この哲学は方法を重んじる神秘主義弁証法であることによってです。つまり、哲学自身がすべての内的矛盾を承認することが可能となる弁証法となるから。人間から出発するという間違いをおかしてもまた、母国語から出発するという間違いから出発しても同一的なものは存在しません。世界は弁証法的に・・・


人間が人間であるときに人間であるのはなぜなのか?

 動物が動物であるときに動物であるのはなぜなのか?

 人間が人間であるときに動物であるのはなぜなのか?


 ひとが母国語で書いているとき母国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが外国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが母国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?


‪(推敲中) 経済学が、学問として起ったのは、16、7世紀の西欧諸国、ことにイギリスであったという。富の研究の如く教説的に富の源泉を農業あるいは金とすると、絶対主義がそれほど豊かになっていないという事実を十分説明できるだろうか。(そもそも重農主義重商主義、この両者はそれほど違いがあるのかという問題が構造主義的に問われようが。) 経済学が経済学となるためには、理念性が要請される。国富の増加を為す労働を指示するのは、理念であり経験知である‬。価値の生産は労働の価値によるのである。


大胆にも、大島渚は自らがヌーヴェルヴァーグに十年先行できた理由として、フランスと比べて早く日本で共産党の権威の失墜が起きたからだと看破した。大島に承諾するかは別として、やはり次のことを考えなければならない。公的なものを語る純粋理性としてのコミュニズムの自己否定はその反対物、極端に純化された私的なものへ行く。それは、文字を持つ者が投射する(どこの世界にも存在しないような)文字なき社会の如く表象されるところがある。( 例えば転向した?網野のアジールとしてのマーケット的世界。) 反論があるかもしれないが、パレスチナから帰還した80年代以降のゴダール映画をみると、ゴダール純化された私的な感覚への埋没を隠蔽しているとおもう。たしかに映画は多様になったが、その代償を支払わなくてはなるまい。2000年代の「ソーシアリスム」からは単純だが、この時代は分裂した公的なものと私的なものとが互いに憂鬱に葛藤している。



‪31歳の首相誕生に驚いたのではなく、その若さで難民排除の教説に絡み取られてしまったかと驚いてしまいました。モーツアルト魔笛」に仄めかされたオーストリアの権力構造の非合理への依存性の謎は指摘されます。(聞くところによると、知識なくとも若いというだけで東大出身ならば権力をもってしまう非合理も気持ち悪いのですけれど)


安倍自民党民主党政権の混乱を繰り返すなと訴えている。現在に繋がる話として、現野党に政権を任せたときの混乱のことだけが言われる。しかし問題としているその混乱に対して自分達の野党としての責任は無かったのだろうか。自民党が野党としての責任を果たせば防げ得た混乱ではなかったというのか?


物自体

表象が物に帰属させられてはいないこと、つまり多様性が予め結合したかたちで主観に与えられてはいないことこそが、他人との諸表象のやり取りを常に可能にする。なぜなら主観はどのように触発されるかによっては規定されず、表象を合成することにおいて自らを規定しているのだから。

-カントの人間学-


‪解釈者は、解釈する権力を以て、(予期できぬ事件の可能性を排して)、解釈されている世界に介入している。政府からの中立性をやめてしまっているのに、解釈した世界からの中立性を保っているかの如く振る舞っている。



‪21世紀の社会主義者はいよいよ解釈者として現れてきた。解釈者は、解釈する権力を以て、(予期できぬ事件の可能性を排して)、解釈されている世界に介入している。政府からの中立性をやめてしまっているのに、解釈した世界からの中立性を保っているかの如く振る舞うマスコミに対して、言論の自由を消滅させないのが、対抗メディアのネットである。だが国家は容赦無くこれを封じ込める口実として、「どんな思想も歴史に条件づけられなければ抽象に陥る」という解釈を呼び出す。その歴史は国家が解釈して書く。解釈をつくる権力を取り返せ。と、民の抗議の声は消される。国家は国家を語る解釈にしか存在しなくなるほどである。国家を自己同一的に語る解釈のなかに、経済的自由を称賛する言葉が反復されるが、政治的自由の意味について語る批判がどこにもない。


北朝鮮に対する日米の武力威嚇の事実を以て憲法違反であると指摘しなければならない。立憲民主党に票をいれる。あとの一票は、安倍政権を追求した社民か共産党に。‬


ファシストにとっては救いの台風、民主主義にとっては試練の台風


単純に投票すればいいこと、無理とおもえば今回は棄権すればいいだけのこと。つぎに投票すればよい


‪危ないあぶない表象なのだが、やりたい放題のトランプ大統領と比べると、習近平が随分まともにみえる。トランプと習近平に圧倒されぬためにも、安倍ぐらいでないと駄目だ。そうしてみんな、安倍みたいになりたいと憧れている限り彼を捨てれない。問題は三極構造にある‬


安倍晋三が国会で為すべきことをだんだんやらなくなってきたと指摘されます。この事実は、もっぱら、彼のスキャンダル隠しで説明されることなのでしょうか?日本会議が政治に何をしたいのか、安倍が何をしたいのかを議論するときがいまなのかもしれません


MEMO

Picaso se posait aussi beaucoup cette question; jusqu'où puis-je aller dans la penture? Quand ils en avaient marre de peindre des paysages, il ne restait plus aux peintres qu'à se peinde eux-mêmes. Le cinéma étant un peu autre chose , ne pouvant pas se faire seul, on peut toujours montrer ce qu'il y a autour de cette solitude.J'ai toujours pensé que le cinéma était un instrument de pensée  (Godard)


ピカソもまた、絵画において自分はどこまで行くことができるのか?とよくみずからに問うた。画家が風景を描くことにうんざりしたとき、画家に残されていることはもはや自分自身を描くことでしかなかったのだ。映画はこれとはいささか異なり、ひとりで作ることはできないので、つねにその孤独な人間の周りにあるものを示すことができるのだ。わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。


ロンドンでみた、画期的なバタイユ展。「ドキュマン」誌刊行によって、シューレアリズ運動の中心をなす、バタイユの影響圏に、エイゼンシュタインは向かっていきました。ローマ時代のコインの肖像、マスク、動物の表情。「顔」に関する宇宙論的探求は、人間を中心とした従来のモンタージュ理論の「知」には収まらない、神秘主義のなにか他の惑星の異生物と交信している自動筆記的な方法でありました。シューレアリズの哲学が、限りなく、(対極の側にあるとされる)「唯物論的弁証論」に接近していくのは、この哲学は方法を重んじる神秘主義弁証法であることによってです。つまり、哲学自身がすべての内的矛盾を承認することが可能となる弁証法となるから。人間から出発するという間違いをおかしてもまた、母国語から出発するという間違いから出発しても同一的なものは存在しません。世界は弁証法的に・・・


人間が人間であるときに人間であるのはなぜなのか?

 動物が動物であるときに動物であるのはなぜなのか?

 人間が人間であるときに動物であるのはなぜなのか?


 ひとが母国語で書いているとき母国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが外国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?

ひとが母国語で書いているとき外国語で書いているのはなぜなのか?

国・東電に再び賠償命令 原状回復は認めず ―福島地裁

‪原告は「原発事故前の暮らしを取り戻したい」として、居住地の空間放射線量を事故前の水準とする「原状回復」を要求。(一部は原発事故で仕事や人間関係を失った。「ふるさと喪失」慰謝料も求めた。) 原状回復は、民事裁判を以て、責任の所在が明らかでない危険な再稼働に抗議するギリギリの主張をなすものだろう。「責任がある」とされた国は、裁判全体の意味を考えよ‬


「判決は、政府機関が2002年にまとめた長期評価やその後の東電津波の試算によって国が巨大津波の可能性を予見できたと判断。『非常用電源の高所配置などの対策を東電に命じれば事故は防げた』と述べた。国は『津波は予見できず、東電津波対策を命じる権限もなかった』と主張したが、判決は規制権限を行使しなかった国の対応を『著しく合理性を欠く』と結論づけた。」(日経)


スペイン市民戦争

スペイン市民戦争を考えることは、20世紀において連帯の国際性と普遍性を我がものとして獲得していく、精神の歴史を考えることである。人民戦線のことは、80年代の公害運動の座り込みの現場でそれを語る人から知ることになった。さて人民戦線は、33年にフランスで、36年にスペインで成立した。37年7月にフランコ将軍の反乱、スペイン市民戦争が起きる。8月及び9月にナチスポーランド侵攻チェコ侵攻。ミュンヘン協定の締結。ケン・ローチ『大地と自由』(Land and Freedom、1995)はスペイン内戦を舞台として、ジョージ・オーウェルのカタロニア讃歌を思わせる設定となっている。(カタロニア讃歌は、人民戦線側を内紛へと導いたスターリン主義と非人間的な政党政治への強烈な批判が語られている。そんな中でも人間味を失わないスペイン人とカタロニア人に対する、オーウェルの愛情と尊敬も語られている。) ケン・ローチは映画を通して、ファシズムに対する抵抗が組織化されていくなかで自発性というものが抑圧されていく問題を明らかにしたとわたしは考える。そしてこの問題は、『麦の穂をゆらす風』(The Wind That Shakes the Barley、2006)においても貫かれている。『大地と自由』から、『麦の穂をゆらす風』で描かれたアイルランド独立戦争とその後のアイルランド内戦の意味をよく理解できるのだとおもう。(ちなみにアイルランドからスペインに行った人々の半分が人民戦線に、半分がフランコについた。)‬