超憲法的なものとはなにか?

憲法的なものとはなにか?

憲法的なものとしての国体論があって、ここから、祭政一致の祭祀的国家と国家神道が成り立っていった、と、子安氏は指摘している。敗戦後、大日本帝国憲法が終わった。だが超憲法的なものもいっしょに消滅したのだろうか?消滅したかもしれないが、消滅し切ったといえるだろうか?超憲法的なものは、半ば死んでおり半ば生きているというような形で存続しているかもしれない。超憲法的なものがあるならば、憲法は病んでいるのである。このことは、法の視点だけではみえてこない。倫理学の視点をともなわなくてはみえない(言説化できない)。ここからどういうことが起きてくるのか?再び、国家神道が戦前そのままの形で復活することはないだろう。同じことは繰り返されないからだ。問題は、戦後の国家神道は、'立憲民主主義の価値'みたいに(!)、多様な思想・信仰の共存のための枠組みと無矛盾である言説を展開しようとすれば、超憲法的なものに依り所をもつことになるであろうという点だ。憲法を改正する必要もない。超憲法的にいえば、祭祀国家が主宰するものは如何なる宗教を超えた高さにあると教えてくる危険がある。戦前からの連続性を夢みるナショナリズム、夢みる国家にとって、目覚めは死である。超憲法的なものを絶えず発明することをやめない。こんな歴史の悪夢から目覚めたいのだけれど

世論調査を問う

世論調査ですが、どちらの質問の仕方がより中立的だったでしょうか?あえてわたしはノーコメント


朝日新聞の質問の仕方「自民党は、国会での野党の質問時間を今よりも減らし、与党の時間を増やすことを提案しています。こうした自民党の提案に賛成ですか。反対ですか。」


NHKの質問の仕方「自民党は、野党に多く配分されている国会の質問時間を、議席数に応じて見直すよう求めていますが、野党側は反対しています。国会の質問時間はどうあるべきだと思うか」

「ユリシーズ」

現代文学ユリシーズ」は、共同体の土地を奪われた叙事詩的怨みとそれに対してとる距離を無意識としてもっている。だから主人公は最も差別されたユダヤアイルランド人ー今日ならばアラブ人ーでなければならなかった。同じ意味で、消滅しつつある氷河も排除されている。それならば氷河を小説の主人公にすべきではないかと私は思っている。私自身は氷河を見たことがない。氷河の痕跡ならば見た。ヴィットゲンシュタインが滞在したアイルランドの端っこ(西部)を訪ねたとき、この眼で見た、筆跡のような、死に切った氷河の痕跡のことを書いた。氷河というもの。今日までこの他者にだれも関心をもってくれないのだけれどね

仁斎論語

郷原は徳の賊なり」(陽貨)

おおー、2500年かけて現在に届いてきたような言葉じゃありませんか。一応、仁斎の注釈(子安訳)を調べたら、孔子が、徳に似て徳に非る振る舞いをもって、郷原(共同体)を徳を乱すもの、すなわち徳の賊とするのである、とありました。すいません、私はポストモダン論語読みの偽物儒教エートスですけど (バレバレでした?)、この言葉の意味をかんがえると、現代の「郷原」はナショナリズムのことではないかと解します。フランス革命やアジア独立のナショナリズムは平等主義と同じ方向性を以て一定の役割をもちました。だが、安倍ナショナリズムの「郷原」は排除主義のほかになんの道徳的理念の方向をもっていませんよ。教育勅語を復活させても意味ないしー、このオジサン、ヤバイ、ヤバイよ

だれがアジアの精神の歴史を書くのか?

アジアの精神の歴史を書くこと


1970年代から1990年代にかけて、「ヨーロッパ」は表象だった。建築物が人間の住処であるように、「映画史」が「ヨーロッパ」の住処とするポストモダンの言説があった。「映画史」はそれほど屋根もなく柱も壁もなくとも、ヨーロッパの精神史の問題がそこにあった。これは、新しく、失われた普遍主義の公理を求める身振りをもっていたのである。さてこのことから、アジアの精神史を問う問題意識も、必然として、美術史から起きてくることになった事情が理解される。「美術史」は「アジア」の住処だったと考えられた。19世紀に、アジアの中心が中国から日本に移っていくときに構成されたのが「東亜」の地域概念であった。中国の美術の傍らで、中国の美術史ではない、朝鮮と日本の美術史を包括した未知の美術史が作り出されようとしていた。これと同じ方向性をとって、岡倉天心「東洋の理想」の場合も、沈黙する映像の傍らで、イメージを思考手段とする言葉が自らを新しく語りだしていく。アジアは一つである、といわれる。中国とインドの文化が漂着していく過去の端っこにある、博物館的にあるような「東洋の理想」が「アジア」の住処であるとされた。ただアジアの精神の歴史は、帝国主義と国体的ナショナリズムに絡みとられることなくして、自らを自立的に展開することは難しかった。21世紀における世界帝国(拡大ヨーロッパ、アメリカ、ロシア、中国)の時代に、アジアの中心が再び中国へ行く時代に(トランプと習近平がエジプトのほうが紫禁城より古いかどうかのやりとりがあったらしいけど、溝口史観とかね象徴的なように)、新しく普遍主義の再構成が行なわれようとしているのだけれど、現在だれが新しく過去のイメージを編集するのか?そこで歴史を書くのはいったいだれなのかという問題がもっとも切実な問題としてでてきたのである

アイルランドとは何か

‪ヨーロッパの色々な国を旅したが、アイルランドだけには行ったことがない人がいる。どんな国か聞いてくるとき、日本人にとってどういう話がリアルなのか非常に迷ってしまう。19世紀に英国によって国が奪われたことを知らない人はいないが、20世紀ヨーロッパの内部で唯一植民地だった国であったことの意味を考えることは中々難しい。ヨーロッパはヨーロッパの外だけでなくヨーロッパの内にも植民地をもったのである。(物事には表と裏がある。この両方をみる必要がある。ここにとどまることはできない。注意深い観察は、裏の側にある表をみることを要求する。) さてこれは問題提起であるが、アイルランドアイルランドとしてあるのは、後に非同盟的連帯が依拠するような、核不拡散の理念を打ちだしたときではなかっただろうか。その実現は米国に骨抜きにされてしまったが‬。今年、禁止条約実現に貢献した核廃絶NGOにノーベル平和賞。日本から7団体参加「ICAN」に参加したという。ここから新しく始まることはなんだろうか

BBCのニュースが読み解く「中国」

BBCの解釈に国家(イギリス)がすんでいる。ヨーロッパかもしれない。BBCのニュースから、ヨーロッパがどのように「中国」を読んでいるかがわかるだけでない。今度は、「中国」と指示されているものが、他者によるこの解釈によって、自らを再構成していく可能性も考えておく必要がある。さて、「習近平思想」を支えるものはアメリカと無関係ではない。「一帯一路」の構想者ワン・フーニーは80年代終わりに米国に留学している。アメリカ人ほど「夢」の語を口にだす国民はいないが、「習近平思想」も「大国としての復活」という「中国の夢」。西欧の価値観も理解できる。保護貿易の批判など経済的自由の意義を最大限に主張するわりに、政治的自由について何かするつもりが全然ないことをどう説明するか?この"強さ"はどこから成り立つのか?、軍事力によるのだ、と、BBCは読んでいるようだ。夢は夢を発明し続けなければならない、目覚めは死である、そうだとすれば、これからアジアの緊張に出口があるのか、根本的にその解決はどこにあるのかなどと考える。
‪「習氏は、米国作家の著書、ホイットマンやトウェイン、ヘミングウェイを読んできたという。しかしトランプ氏の本を読んでいない。習氏にはもっと頼りになる国政の指南書がある。孫子の兵法だ」(BBC)‬