公開されたときは、渋谷で三回みたかもしれない。監督の制作ノートも読んだ。「ゆきゆきて神軍」では、観る前は、世直し的救済論の危うさを描いているのかなとおもっていたが、寧ろ倫理的なものに突き動かされている人間への視点にとらわれた。決して単純ではない。渾然としている。出発はシャーマンを通じて真実が恰も始めて語られたときだったという。あえて私の理解で鬼神論的に言うと、魂は普遍のみ知る。特殊を知らない。欲望を知らない。だとしたら、寧ろ引き金を引いたのは、実存的なものかもしれない。何だったのだろう、あの映画は。三浦さんならば、「危険人物です」という感想を言うのだろうだけれど (大事な映画を語るときにくだらん名前を出すべきじゃない)
排除
ゴダール「カルメンという名の女」(1983)
原発の政治的災害が「文革」の政治的災害の意味を私に問うことになったとき、「カルメンという名の女」(1983)がゴダール映画の中で最も愛する作品だとストレートに言えなくなった。「文革」を終わらせない反近代主義の敗北の逆説が、この映画における盲目の言葉を構成しているのだから。イノセントなものと罪あるもの、この両者の中においてしか映画を語ることができない。「黄昏」において、倫理的なものが芸術に先行する...
CARMEN; Comment ça s'appelle quand il y a les innocents dans un coin et les coupables dans l'autre ?
VALET; Je ne sais pas, mademoiselle.
CARMEN; Cherchez, imbécile
VALET; Je ne sais pas, mademoiselle.
CARMEN; Mais si quand tout le monde à tout gâché, que tout est perdu, mais que le jour se lève, et que l'air quand même se respire.
VALET; Cela s'appelle l'aurore, mademoiselle.
死の分裂化 ー ポストモダン<死>
ポストモダン<死>
『鬼神論』を再び読んだあとに、厄介な風邪も治ってきたところで、これから『平田篤胤の世界』を読もうとしているのだけれど、改めてこれは何を問おうとしている本なのかと考えてしまった。2018年の現在、2001年に出たこの本から新しくなにを学ぶのか?21世紀グローバルデモクラシーの方向をもった、アジアにおける新しい普遍主義の形が模索されようとするとき、嘗て「日本人」と呼ばれた人びとが依ることができる彼らの新しい経験といえば、「普通の国家」になることを辞める誓いを行なった戦後から祭政一致の国家祭祀をやめなければもうやっていけなくなると感じた倫理的なものがある。祭政一致の国家祭祀は責任をもたない政府を作り出してしまう。こういうテーマはこの五年間の間、思想史講座の講義後の懇親会のような場で段々と築きあげられていった認識である。それは、哲学的には、『アンチ・オイデプス』(1972)において現われる"死の分裂化"の概念に関わるものだと考えている。(90年代に読んだそのハイデガ批判を正確に理解していないのだけれど、それで構わないとおもっている。) 平田篤胤を読む"死の分裂化"が私の関心である。それは、他者との関係において自己との関係を再構成していくそのありが、思考の柔軟性をともなった情念(怒りも含む感情)において為されるという見方を理解させるような、ポストモダン<死>とあえて呼ぶべきものである。グローバル帝国論も、グローバル時代の明治維新の再評価も、救済論的に一生懸命国家を作り直そうとする物の見方であるけれども、(戦前の祭政一致の国家祭祀がそのままの形で繰り返されることがないだろうが)、そうした言語を拡散し死を集中させようとするナショナルな言説から脱出できるかどうかは、何とか知識人から離れず民の側からする思考の柔軟性を保った、内部に絡みとられることのないその"死の分裂化"にかかっているのではないかと思っている。
映画の字幕
映画の字幕の役割は大きい。例えばフランス映画の映像に対して、日本語で読む観客の無意識が介入してくるので。映画と等価の、時には、それを超えた大きさをもつ怪物があなたの座席の横で増殖している
津田左右吉
宗教社会学のマックスヴェーバはカウンターウエイトの語を以てピューリタニズムのあり方を分析した。ピューリタニズムを構成していく世界は現実世界に対するカウンターウエイトを作っていく。昨日は子安氏はカウンターウエイトのことに触れたうえで、津田左右吉の「我が国民思想の研究』とは明治国家と同じ重さをもった大業だとおもったと話した。明治国家に耐えらないからかくも厚い本を書いたのではないかと。同様に、『仁斎論語』は、安倍の世界を直視するのが嫌で、逃げないでやっていくカウンターウエイトだと語った。この四年間は、仁斎論語と津田論(「『大正』を読み直す」、津田・国民思想論)でやってきた。現在中国の読者を獲得しているというポストモダン孔子が発明されていく思考の時間に、「津田左右吉」はすんでいたのである。
戦後日本の民主主義は五箇条の御誓文の第一条(万機公論)に内なる始原を見いだしながらその国民的定着がはかられていった。しかし津田左右吉にとって問題は、「王政復古」ー天皇に政治責任を押しつけるーは責任をもたぬ政府を成立させてしまうことだった。それなのに、グローバル時代における明治維新の再評価が起きているというの?
(子安氏講義「津田、国民思想論」とメモ)