<説教したがる男たち>悪

<説教したがる男たち>悪

説教したがる男たちは特権のなかにいます。特権が見えないのは特権のなかに属しているからだという問題は、倫理的な問題です。こういう問題は、父なるものが孕んでいる問題で、法の問題としてもっと考えてみなければならない問題なのかもしれません。説教したがる男たちのなかに自身を説教している稀なひとたちもいます。啓蒙主義は自己に啓蒙するように、説教は自己に説教するというか。説教したがる男たちを人類史でみていくと面白いのではないでしょうか。最後に説教した人はテレビの大島渚だったとおもうのですけれど。(ゴダールロッセリーニのように説教師だったら映画はもっと単純になったでしょうけれど)。一番最初に説教した人は親鸞ですかね。衆生に説教しても救うことができないのになんで説教してるんだろうかと『教行信書』で書いていましたよね。色々な見方があります。モダンな感じですが、親鸞も自身の説教に対し疑問をもっていたということ。哲学的にいうと、自身の特権性を問わない説教にたいする反感は、歴史的に形成されたもので、学問の権力を独占していた僧侶にたいする思想的反発を精神が内面化していると考えてみたらどうだろうかと思っている所です。元々民間神道も街頭で説教する儒家的伝統をもっていたのですが、近世の宣長みたいな人から儒者が説教する理念性の言説を嘲笑うというか反感をもつということが起きてくる話に興味があります

ブレヒトで読む現代中国

「名の知れた人の言葉が、すべて名言であるとは限らない。少なからぬ名言は、むしろ農夫や田舎の老人の口から出たものだ。」(魯迅)

1、ブレヒト戯曲のおそらく議論をよぶ思想の部分ー2018年の現在からいかに50年代の戯曲を解釈するかーについて語ることは、簡単ではなく難しいです。とくに中国を話題にすると、かならず喧嘩になっちゃうからですね。だけれど、皇帝中国を舞台にした芝居を見て、敢えて天安門前広場抗議の弾圧を文革の反近代の問題と結びつけて考えてみようとするのは、このわたし一人でしょうか。経済政策の失敗をいうかわりに正常性を言い支配の秩序について何もかも説明し尽くすために学者を招集した「皇帝」を批判的に描いてみせたこの芝居は、大切なことを考えるための手段です。

2、‬「国民は自らの下にあるものを、自らの上に置いている」les nations ont au-dessus d’elles quelque chose qui est au-dessous d’elles. と、19世紀の文学者ヴィクトル・ユーゴは教えてくれるこのことを、世界資本主義の分割である「帝国」が現れてくる21世紀のコンクテクストにおいて解釈しないとすれば、文学の文学以上の意味をわがものにすることが難しいでしょう。アジアの国民は自らの下にあるものを、自らの上に置いているようです。ここで問題なのは、「上」と「下」をひっくり返しても、別の「上」が出来上がってしまうだけであった社会主義の歴史を考えないわけにはいきません。現実にとうとう社会主義国家に「皇帝」が現れることになった現在の事態を考えるためには、近代化を担う主体であった近代官僚制に対する反近代の破壊があった、「文革」という名の政治的災害とそれへの共感がもたらしたものを考えてみようと思っています。

3、アイルランドはこの20年間で、ファンダメンタルを批判する形で多元主義の方向をもつ政治的自由を推し進めたことをおもうと、自民党的アジアをみようとする日本言論のナショナリズムを満足させる形で、アジアは専ら経済的事柄が進むだけで、ヨーロッパと比べられるような多元主義の方向をもつ価値ある政治的自由が困難なのでしょうか。この思考の欺瞞に絶望しないとすれば、現状肯定的にシニカルになるしかないのですか。否、われわれは全知全能の神ではありません。正常性に向かって何もかも説明し尽くすために学者を招集した「皇帝」でもないのです。また何でもかんでもカネが解決できるとする全知全能の市場でもあり得ないのです。たかが理念、されど理念、まだ抵抗をもつことができるとすれば、アジアは経済的自由だけを追求すればいいのであって政治的自由は成立しないと教えてくる全知全能の完全な知という神話にたいしてだと思うのであります

20世紀とともに、ソビエトが発明した現代国家も、中国が発明した現代の民族の概念も終わりました。今現在、発想の大転換が必要。アジアは連帯責任を負う。アジアにおいて為されることはことごとく、アジアが為すと。人類に立つグローバル・デモクラシーのアジアが要請されているのではないでしょうか。人類は、「世界史の構造」「帝国の構造」で再び物語られるような国家的民族的視点とは別の眼で眺めます。良心です。「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつまでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」

St. Thomas of Aquinas

The existence of an actually infinite multitude is impossible. For any set of things one considers must be a specific set. And sets of things are specified by the number of things in them. Now, no number is infinite, for number results from counting through a set in units. So no sets of things can actually be inherently unlimited, nor can it happen to be unlimited.

ー St. Thomas of Aquinas

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10216741500587473&set=a.10204437539556137&type=3

テニス

テニスは常にテニス以上の意味をもっていました。アーサー・アッシュとかビリー・ジーン・キングの時代は、テニスの身振りとジェスチャーアイデンティティの政治と結びついていたようですが、テニスに政治が読み出された最後は、スエーデンのワーキングクラスのナショナリズムから支持されたボルグ。新しく始まったのが、テニス界のゴダールといわれるマッケンローは、中断ばかりしているアイデンティティなきポストモダンの身振りとジェスチャー。今回、セリーナの苦情の身振りとジェスチャーをどう読むかですね‬。この場合、彼女がなにを考えていたかはそれほど重要ではなく、そうしても深読みにしかならないしー、オバマの時代の後、トランプの時代に自らをマイノリティーと感じる「白人」に対する再びマイノリティーの抗議を読み解く見方が出てきそうですが、むしろ共通なき他との「連帯」をさがすことに意味がでてきた時代がきたのかもしれません

‪感想文 ; ブレヒトの芝居小屋『トゥランドット姫 あるいは 嘘のウワヌリ大会議』(ブレヒト作、公家義徳 上演台本・演出)‬

‪1、トゥランドット姫といえば、プッチーニのオペラ。美しく冷酷な姫トゥーランドットと結婚するには3つの謎を解くことが必要で、謎が解けないと、首をはねられてしまう決まりのことはだれもが知っている。知に依存するオリエンタルな国家が表現されている。さてブレヒトの芝居はこのオペラが明らかにすることができないものを示した。それは切実な問題であることも明らかにした。「信なければ立たず」。これは為政者に対して言われた古代の言葉である。知識の本は豊富にある。だけれど信はどうか?国家は信なき国家となってしまっている。ここを見逃してはならない!ブレヒトの皇帝は、木綿が手に入らず、着る物にも事欠く民に対して、なぜ木綿がないのかを問うたが、もし私が皇帝だったらと想像した。何を問うだろうか。このことを問うかもしれない。答えを出すようにと行う質問は、「奇妙な響きをもつ“トゥイ”とはなにか?そして東京演劇アンサンブルが東京演劇アンサンブルであるためには?」である。‬

‪2、最初の答えは、本公演パンフレットの中にちゃんと書いてあった。ブレヒトは知識人Intellektuelleをトゥイと呼んでいる。(トゥイ(Tui)とはブレヒトの造語(知識人 <I>n-<t>elkekt - <u>elle を分解して頭文字を逆に読む)。ブレヒトがこの芝居を書いた1953年の問題意識を、現在2018年に置き換えて考えてみようか。芝居は、トゥイのあたかもクイズ番組の回答者に成り下がったその姿を嘲笑っているようだ。この光景は、なぜかくも多くの者が文化人になりたがるのかということと無関係ではない。知識人が出て来なくなったのは、自己の発言に責任をとらなければならない知識人よりは、責任のない文化人を選ぶからである。‬芝居をみてこのことを考えさせられた。

‪3、ここから、二つ目の答えがみつかるかもしれないとおもっている。東京演劇アンサンブルが東京演劇アンサンブルであるためには、それはなにか?知識人とはなにかと自己について問う行為が終わってはならないというこである。芝居を思い返す。終始皇帝が恐れていたのはじつはここだったのである。芝居が私を驚かせたのは、皇帝がデモ弾圧し野党的存在のリベラル知識人になりうる可能性をもつトゥイを殺戮し尽くすその後に、皇帝と御用学者との間のそれほど単純ではない関係を観察していたことである。知の力はすなわち支配の力か。皇帝は支配するために知の力に頼らざるを得ないあり方。知識人たちが語る皇帝の全く知らない言説を住処としていくことは、皇帝にとってこれほど危ういパラドックスはないだろう。そうであるならば、これは言説に関わる頗る怖いほどの現代の風景ではあるまいか。

3、権力の場から距離をとっている教師ゼンとかれを助ける少年が登場する。ゼンは、直に権力にたいして反抗の直接的行動をとることはないが、決して傍観しているわけではない。ゼンは彼以前に誰も言わなかったことをはじめて口にするのである。彼は兵隊に抗議する。そして微かな声で、驚くべき大切なことが語られる。思想が大切だ、思考することが奪われてはならないと。彼もまた、国内亡命の反時代的な言説をつくっていた。このとき、ポスト・ブレヒト小屋のあり方を再構成していくとしたら、とわたしは考えた。ゼンの言葉の力をどうしても書かなければならなかったブレヒトの切実な問題意識と言説的構成が大切ではないかと思うのである。いかに、先駆的であるがブレヒトが必ずしもはっきりと考えてはいなかったゆえに今日のわれわれが考える必要が出てきた言説の配置のあり方を読み解くか。‬

4、‪皇帝と洗濯女の一人二役の力のある演技に注目した。世の中で私自身が貴重な存在となれるようにと、だれもがトゥーランドット姫であり得るように、だれもが皇帝であり得る。洗濯女ヤオから、皇帝の心の孤独な影に投射される。と同時に逆投射がある。洗濯女は共同体を思考の対象にして、生活している自分たちのあり方を考えようとする。はじめに書いたように「信なければ立たず」。国家はそういう信なき国家となってしまっていることをどうするのか。問題は、皇帝への先祖返り的な同一化にあるのではないようだ。問題は、祖国とか愛国心に絡みとられてしまうと、戦争を導く国家を批判的に相対化する究極的な自己が追求できなくなってしまうことにある。と、そのように、2018年の問題としてわたしは考えていくだろう。最後に、偉そうなことを言うようで恐縮であるが、演技の面で充実していく必要があると感じたのは、皇帝とトゥランドット姫との関係ー 仮面の父と仮面の娘との関係ーだろう。ここがもっとはっきりわかってくるならば相当に面白いだろうと思うのである。また、このことだけは言っておきたい。空間をもっているから俳優が成り立つ。長い渡り廊下のようにある、まるで言語の端みたいな、舞台の空間を支配することはそう易しいことではないだろうけれど、若手の男優たちにかかっている課題であると彼らに期待している。‬

‪ (追記) ‪このブレヒトの‪劇評のなかで、”仮面の皇帝と仮面の姫“と書いてある一文を読んで、姫は素顔なので変だと思う方もいらっしゃるでしょうが、わたしの見方では、顔の下に仮面が存在しているのです。衣装も仮面かぶっています。舞台も仮面をかぶっているかもしれません。と、このように考えてみたら、ただの仮面劇の近代ではなくて、仮面が顔を仮面にしているという構造劇の脱近代ー構造からいかに脱出するかを問う問題提起ーが成り立っています。ここから豊かな複雑性を孕んだ色々な可能性が出てきます‬

思想史講義(子安氏)で考えたこと‬

‪MEMO

今日の子安氏の思想史講義で考えたこと‬

ヘーゲル法哲学』はこう問うた。‬

‪いつの間にそんな家族が現れた‬

‪いつの間にそんな市民社会が成り立った‬

‪だから国家をもった‬

‪ここでヨーロッパでは市民的不服従はわれわれの問題ではない。国家の問題である。抗議をやめてしまう市民的服従がわれわれの問題である。‬

‪ところが後進国(明治国家)の真相はこうだ。‬

‪いつの間にそんな家族が現れた‬

‪国家をもつと同時に、市民社会が成り立った‬

‪市民的不服従はわれわれの問題ではないことも、国家の問題であることも同じだ。違いはつぎだ。抗議をやめてしまう市民的服従がわれわれと国家の問題となる。しかしそれでは国家を批判的に相対化する究極的な自己の生産が難しい。そこで「愛国心」に絡みとられる。天皇の言説をもちだすと一層困難である。1945年に、戦争を導いた国家と天皇を断ち切ったはずなのに‬