『コロノスのオイディプス』

ソポクレースΣοφοκλῆςの‪『コロノスのオイディプス』(Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ)に言及して、「オイディプスの逃走と(国内)亡命が示す純粋な線と一体化する」と分析したD&Gの一文。(「線」というのは、言説空間をあえて滑らかな空間と考えてみたらどういうことが言えるかとする問題意識から言われることなのだけれど、大まかにいうと、「逃走」が成り立つのは、支配的な物の見方(言説)の中でそれとは新しい物の見方(言説)によってということ。気になるのは、「顔の不在を覆う少女の仮面」とは何かだけど、そもそもD&Gがいう「少女への生成変化」は、少女の同一化などではなく、器官の変化をともなう形で少女になることをいう。それは不可能なので、生成変化は方法的に要請されるのであろう。「顔の不在を覆う少女の仮面」とは何か、「雑多なもの、非等質なものがことごとく召喚される平面、文字通り宇宙的にな平面 un plan propre ment cosmique, où tous les disparates et les hétérogènes sont convoqués

オイディプスは三つの秘密をたどる。まず、彼がその箱の中身を見破るスフィンクスの秘密。次にオイディプス自身の有罪性が示す無限の形式として、彼に重くのしかかる秘密。そして最後は、オイディプスをもはや誰の手も届かない存在に変え、それ自身もオイディプスの逃走と亡命が示す純粋な線と一体化する、あのコロノスの秘密。そのときオイディプスにはもはや何一つ隠すべきものがない。あるいは年老いた能の役者さながらに、顔の不在を覆う少女の仮面を残すのみとなる。ある種の人間は、何も隠さず、嘘もつかず、ただしゃべっているだけでいい。彼らは透明性によって秘密となり、水のように測り知れない、まったく不可解な存在になるのである。ところが他の人間は、厚い壁で秘密うぃ囲ったり、秘密を無限の形式に高めたりしたところで、結局はその秘密を暴かれてしまうのだ」‬

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なにが法であるかー日韓条約と個人賠償請求権

歴史発見クイズじゃないけど、イギリスの裁判は長い歴史がある。人々はよい判決をだす知恵ある裁判官をさがして裁判を依頼した時代があった。裁判官の間で他よりもよりよい判決を出そうと努力したというんだね。時代は違うが、裁判というのは何が法であるかを発見すること、このことは変わらない。今回日韓条約と個人賠償請求権の解釈について、韓国の最高裁が日本最高裁が十分に発見できなかった法を発見してくれた。そう考えてみると判決は意味がある。どうして無かったかのようにしてしまうの?同じアジア人なんだし、人権にかかわる法の法を分かち合おうよ

トランプ問題

言論の自由の尊重からファシズムの語の濫用を慎むべき所を、敢えて映画監督はトランプを“ナチス”(21世型ファシズム)と呼ぶのはこの語を使わなければ伝えられないことがあるからかだろうね。トランプは結果であるという。みんなが自分たちは抑圧されていると思いながら自覚なく他を抑圧している。抑圧されたものが抑圧するというミクロファシズム。‪全員がトランプを支持しているのではないことは明らかである。何がなんでもトランプを支える媒介者が問題である。安倍首相もトランプを成立させてきたとも指摘されているようだ。日本の言論の高まる反米主義と国家主義天皇論(国家主義の問題を隠蔽してしまいかねない)の一国主義的視点の形成も大変危険だとおもわれ‬

原発問題

‪ 「責任は現場にある」の意味は、それを語るひとに「責任がない」こと、そして彼が一体となっている「国」に「責任がない」ということなのですか。多分愛国心とはかくなるものなのでしょう。原発問題とは国家の問題。それならば、困難な課題でありますが、なんとか、生きている間に、わたしの自分に与えられた課題として、戦争と政治的災害をもたらす国家を批判できる究極の主体を形成しなければとおもいました ‬

言説「憲法教」に反論する

誰が言説「憲法教」を言っているのだろうか?日本会議稲田朋美国家神道のかわりに言っているのである。国家神道は恰も多神教の仮面をもっているのは、現在の宗教学の研究によるという。一神教のあり方を隠蔽しているとも指摘される。日本人の宗教は一神教ではないから優れた多様性があり、ヨーロッパで起きたような他を排除する悲惨な宗教戦争が起きないという。こういう独りよがりの自慢話は繰り返しきかされてきた。それならば、国家神道は「憲法教」と名指しているものを排除しようとするのは一体どのように説明するのだろうか?

『リトルネロについて』

問題は、「いま捕獲すべきなのは、不定形で非物質的なエネルギー宇宙の力」(ドウルーズ&ガタリ(『リトルネロについて』) だから<権>力に屈したからといって、<権>力に屈しただけのことで、屈したことは、支配者を超越者として内面化するという隷属化(構造化)までのことは意味してはいない。そういうことは‪ポストモダンニーチェニーチェの力の思想が物語っていたし、近代の日本語が隠蔽してきたのだけれど、反明治維新のアジアの思想家もはっきりと語っていたようだ...