Ocean(海)という世界の原神話

『フィネガンズ・ウエイク』のジョイスも世界の原神話を考えていたことは間違いない。世界の原神話は死後の世界での安心を物語るであろう。マース・カニンガムは、1998年のベルファスト条約合意のとき、『フィネガンズ・ウエイク』から感化を受けたケージの音楽をもってベルファストに乗り込んできた。ダブリンから3時間かけて北アイルランドへ行った。平和的共存をのぞむ人びとに捧げられた舞踏は、Ocean(海)と名づけられたことに大きな感銘を受けた。2019年のNo dealのBrexitは、人びとが依拠する海をふたたび奪おうとする危険な分断であると言わざる得ない

ヒチコックの宇宙のコントロールとゴダールによって呼ばれた映画界(=多-異界)

死者はなくならない。たとえば生まれ変わりの物語が語られていく意味は何かを考えることによって、近代のあり方を問う。近代に顕著な本来性の見方(一義的な決定的な解釈)を相対化しよう。見えるもののなかに見えないものが遍在する、ヒチコックの宇宙のコントロールゴダールによって呼ばれた映画界(=多-異界)。同一のスクリーンに生者と死者が共存している。死者を忘れてはいけない。トリフォーを忘れてはならぬ。

(写真はゴダール『映画史』より)

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‪ 「平成の30冊」が意味するもの

17世紀以降は、アジアが存在するのはアジアが存在するからではなく、アジアは言説のなかのアジアが存在するから存在してくるようになる。支配者のヨーロッパが語るアジアは20世紀のオリエンタリズムの文献学的な知として普遍的に構成されてくる。20世紀後半のポスト構造主義が与えることになったのは、近代を問い直す視点を以って、支配される側におけるアジアの形而上学を読み解く知識革命のあり方から、アジアのわれわれがその部分となっているオリエンタリズムの視線を相対化する視点である。世界史の普遍のなかにそって語られたわれわれと言語の関係を脱構築した子安宣邦『漢字論ー不可避の他者』は大切である。なぜならそこに人間の存在の意味を問う水平的全体性の見方があるからである。ところが朝日新聞「平成の30冊」には、平成において知識人の役割を否定して転向した「世界史」の思想家の本が堂々とあるが、『漢字論』がない。驚くべきことに、サイードの本も、スピヴァーグの本も入っていない。『文化と帝国主義』は?ネグリ『帝国』は?グローバル・デモクラシーの『帝国か民主か』も無ければ、ピケティ『21世紀の資本』もない。知識人の役割をもって、確立した物の見方のなかでそれとは異なる見方を提示できた古典の価値をもっていることが重要だ。‪これ以上現状維持的な似非多様性の言説に絡みとられてはやっていけなくなると思うのだけれど、だからこそこの無力から、理念的に要請される自由の意味をあらためて考えようとするものが古典の価値ではないか。‬と思うが、そういうことはどうでもよくて、売れる本が良い本であるということに尽きるのか?‪ 「平成の30冊」が意味するものは何か。「平成の30冊」は見事に、古典の精神が消滅する平成が平成としてあった所以を証明してしまっている。のではないか。

ピカソを読む ー challengeing the past

‪17世紀というのは、中世的世界観の終わりと近代の初め(近世)ですね、「危機の17世紀」といわれます。世界史の年表をみればわかるのですが、時代の精神は外部へ出ていくのです。外へ出て行くのは、ヨーロッパだけでなくアジアもです。17世紀が17世紀として成り立つ外部へ出る運動は、成熟の絶頂にあった芸術の力によることではないだろうかとおもっています。17世紀は、互いに戦争し合った貴族階級の没落の結果、王が貴族の媒介なく民衆と直に結びつく時代の始まりであります。重商主義は中央主権化によって成立したのです。この点について、マルクス資本論」を読む人はそういう見方をしますが、統一が分裂を解決するのかといえば、逆です。統一するから分裂が起きるのです。17世紀のあとに、18世紀の啓蒙の時代と革命の時代がきます。

‪中世的世界観の終わりとともに存在論は没落します。存在の哲学は20世紀に復活します。ここでこれについて詳しく説明できませんが、二十代の終わりの昔ですが、フーコは『ラス・メニーナス』を利用してハイデガーのテクストを読んでいるように思うことがありました。20世紀から『ラス・メニーナス』 の17世紀をどう見るかということです。現在は、ヨーロッパに限らずアジアのことも考えて、20世紀から17世紀をどう見るか、反対に、17世紀から20世紀をいかに相対化していくかという楽しみがありますね。特に後者の場合、オリエンタリズムの問題があります。

ピカソは『ラス・メニーナス』を再構成していますが、彼が向き合ったのはベラスケスだけではありません。challengeing the past という言葉に言い尽くされているように、彼は過去の巨匠達の作品を再構成していきました。これは失ったら代わりをみつけていくというモダニズムの精神による再構成といえるでしょう。ピカソの『ラス・メニーナス』では、ヨーロッパは失われて仮面とアフリカが現れてきます。フーコの『ラス・メニーナス』には、失うために失うことができるというポストモダンポスト構造主義の見方、近代を問い直す見方を見いだすことができるでしょう。

英国のEU離脱を語る、イギリスを語る、離脱されるEUのヨーロッパを語るとは、どこからイギリスを評価するのかによる。アイルランド時代はダブリンからみた。今日はアジアからみようとしていている。

英国のEU離脱を語る、イギリスを語る、離脱されるEUのヨーロッパを語るとは、どこからイギリスを評価するのかによる。アイルランド時代はダブリンからみた。今日はアジアからみようとしていている。米国のイラク戦争支援に帰結した原理主義からの影響に晒されていたブレアーのポピュリスムは、安倍政権の日本と同じようにように、国が分裂した。ポピュリスムの問題だったのか?むしろ原理主義の問題だったと思う。原理主義の近代は国家と民族に代わる新しい普遍の再構成を挫折させたのではなかったか?どうもそうおもう。これは、ヨーロッパ時代にはっきりとよくみえなかったことであるが、失敗した明治維新の近代にまだ絡まれていて新しい普遍主義を確立できないでいるアジアのわれわれの問題としてみえてきたと考えるようになってきた。もっと分裂すべきときではないか。日本会議が構想している米中から自立した天皇教的国家なんかに統合されてたまるか!

MEMO

‪ 日曜日は250人以上の聴衆がいました。勝五郎の意味を考えるためには、勝五郎のことだけを追いかけるだけでは十分ではなく、インタビューした勝五郎を書く篤胤の思想のあり方も一緒に考えることが大切だという点が伝わったのではないか思います。できることなら、宣長の思想の存在を喚起する宣長を示す像が篤胤の横にあったらよかったのでしょう。日本思想史を解体する『平田篤胤の世界』を読んで理解できたことなのですが、先生の宣長の本が四冊ありますが、篤胤が新しく語られるためには宣長を再構成する必要がありました。篤胤から発見されていく宣長と篤胤、この両者は互いに切り離すことができません。ホワイトボードの宣長の文字を撮りました。結果的に、篤胤と宣長の間に子安先生が立っておられる映像に驚き感動しております。

‪ なるほど、「時間そのもの」ですか。コメントを興味深く読みました。一秒を無限に分割した瞬間もあるし、五百年ぐらいの瞬間もあるのだろうと考えはじめています。ここから考えてみたい問題は、「時間そのもの」は、どこにあるのでしょうか。それは、超越的にあるようにみえるがわれわれからそれほど独立してあるのではないし(多分カンバスの表にあるかな?)、また、内在的にあるようにみえるがやはりわれわれからそれほど独立しているのでもありません(カンバス裏にある?)。「時間そのもの」はこの間を往復しているのかもしれません。往復しているのは「時間そのもの」だけではありません。ほかにもあるでしょう。 (すこしわたしの関心に引き寄せて書きますと、国語学者・文法学者の時枝誠記は、「ラス・メニーナス」に言及しています。彼は何を読み解いたのでしょうか。説明し尽くすことができませんが、映像(絵画)が言語のなかのXを開かせたのではないかと思われます。つまり、往復している「漢字とは何か」を問う言説をはじめて発見した可能性があります。)

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人形浄瑠璃文楽はホー、面白かったのに、しまったニャ、パンフレットを電車のなかに置いてきてしまった。男女の愛と友情の世界を演じ切った人形が三体、舞台で操る九人の男性の影たち。なんだろうね、いったいこれは?秩序の背後にもう一つ別の秩序があるわけだけれどね、秩序と秩序の間に秩序そのものが宙吊りになる、観客席からは見えない過剰なものの存在を考えたなぁ。‪明治「維新」の近代が苛立った‬

‪ ‪'Let's leave theories there and return to here's hear' (Joyce, FW)

‪ 'Let's leave theories there and return to here's hear' (Joyce, FW) ヨーロッパの端にある‪アイルランドで考えるポストコロニアルからポスト構造主義にかえってきた。そのポスト構造主義は、人間が立つアジアのあり方を考えるポスト構造主義。そうして言語論の言説を去って漢字論の言説にやってきた。映画の歴史は終わったけれど(だがまだやることはある)、そこから開かれた思想史の旅を行なっているというか。アジアの端っこで、いかに目に見える端と目に見えない端との関係を思考において打ち立てるのか?

‪ 1998年のベルファスト平和条約は自立北アイルランド(英国からの独立に非ず)を成立させた。国民投票と雖も確立した平和条約の実質を破壊できない。結局修正脱EU案も修正なき脱EU案も否決されたのである。議会は期限の延長を可決したが、恐らく修正脱EU案は困難だろう‪(いかにEUから離れるかのアイデアをもっていない英国は最後までEU頼みである。)‬極右翼と保守党の脱EU案はポピュリスム的な内向きのスローガンのままである。‪「次に何が起きるのか」という言葉だけが増殖している。その中で、次に保守党の終わりを指摘する声も出てきた

‪ 台湾こそは外部にたいして開かれています。その点で台湾は子安宣邦氏に外部の思考を可能にしてくれる他者の島なのです。東京の思想史教室で批判的に相対化してきた「明治維新の近代」を台湾の側からどんな観点をもっていかに理解されるのかを検証なさっておられると思います。講座『明治維新の近代』は続いて行きます

‪ ‪黒板に「神代史」の文字がみえます。講座『津田左右吉の国民思想』は講座『明治維新の近代』に先行します。二つの講座を一緒に考えてみる必要があるのです。学んだことを考えてみますと、まだはっきりとしたことは言えないのですが、距離は思考にとって不可避の他者ではないかと少しずつ知りつつあります。たとえば、津田左右吉は「民族の始まり」を敢えて言うことによって、国史が語り始める国家の言説を批判的に相対化できたのは、彼が倒幕派に対する距離をもっていたからです。また中江兆民は自分の思想を「漢文エクリチュール」を以って言うことによって、国体論の言説を批判的に相対化できたのは、彼がヨーロッパ翻訳言語に対する距離をもっていたからでしょう。明治維新はどうして相対化しないといけないのかという質問が出たようですが、これについて子安先生がどう答えたかはお聞きしたかったです。その場にいなかったので知らないのですが、その質問について東京にいるわたしも一緒に考えてみると、やはりアジアは明治維新の近代を相対化しないと、現在の権力からの距離をとれなくなり、またヨーロッパの近代が定位する支配言語からの距離もなくなることから、アジアは自立的な思考ができなくなる、自由に喋ることができなくなるからではないでしょうか。

‪ 「社会主義の世界連邦国は国家・人類の分化的発達の上に世界的同化作用をなさんとするものなり。ゆえに、自国の独立を脅かす者を排除するとともに、他の国家の上に自家の同化作用を強力によりて行わんとする侵略を許容せず。ーーこの点において社会主義は国家を認識し、したがって国家競争を認識す。」 思想史の方法論は、思想を読み解くことはしない。北一輝に深い思想はない。しかし言説家としての北が何を喋ったかは読み出されなければならない。北は「国家による社会主義」を言うことによって、天皇ファシズムと中国スターリズムの言説を批判的に相対化できたのは、彼が言説の還相に存在していたからではないか。中国から日本の言説を読み、また日本から中国の言説を読んでいた。 ‬

1980年代について

ヨーロッパとの差は、ヨーロッパの脱原発化との差のことだけではありません。報じられるヨーロッパの極右翼は、危惧される時代の危険な動きですが、それは、日本の極右翼ー戦争責任が裁かれず戦前からそのままきたかにみえるーと同じものとして考えてはいけないのでしょうね。日本政府の声明は歴史修正主義者の隣国に浴びせるヘイトスピーチに近づいてきたという指摘があります。こんなことは私の知るかぎりヨーロッパの政府にあり得ないことです。ヨーロッパとの差は、80年代から始まったことですが、どんどん開いていくばかりです。 80年代の決定的な転換のときにもっと考えなければいけなかったのだろうと思います。‪80年代に、近代の確立した物の見方のなかでそれとは異なる見方をもつ思想がヨーロッパにおいて現れたきましたが、この<異議申し立て>の思想をアジアの自分たちのものにしていなかったために、そして現在も為されていないために、現在権利のない社会が多様性のない物の見方と一緒に出来上がってしまったように思えてなりません‬。80年代はジャパン・アズ・ナンバーワンナショナリズムに陥ってしまいました。この復活に意味がありますか?‪国家と民族の垂直的な全体性の思想を回復するよりは、人間の隣同士の関係を重んじるような、関係性そのものの意味を問うことができた、17世紀の水平的全体性の思想にかえるときではないでしょうか‬