MEMO

" 向こう側にある『歎異抄』はみえる。朱子の『論語』はこうであるかもしれない" (子安先生の『歎異抄の近代』講義(板書)より)「天」=「公」の記号=は何かと時々かんがえる。この等価記号によって、「天」の領域=「公」の領域とのあいだの距離がなくなるとい…

MEMO

ソクラテス。それにしても何故死罪だったのか、さっぱり分らない。ゴダール曰く、ソクラテスはロッセリーニとそっくりだったと。つまり、ソクラテスもロッセリーニも、どんな立場の誰とも対話したので公から危険人物にされてしまったのだろうと。なるほど本…

MEMO

‪ゴダールは、『新ドイツ零年』(Allemagne année 90 neuf zéro、1991)によって、「歴史」の領域にはいることになった。『アルファヴィル』(1965)のレミー・コーションを、探偵として、かつて東西を分断した境界を超えていくドン・キホーテの分身として呼び…

鎖国はほんとうにそれほど鎖国だったのか?

鎖国はほんとうにそれほど鎖国だったのか?安倍応援団の日本会議の問題は、どういう国にしたいのかという理念性を拒否している点にあると思うのです。残念ながら思ったほどには左翼からも声がきこえません。ヨーロッパ諸国は戦後、平等と多様性を重んじてき…

劇評; 東京演劇アンサンブル公演『揺れる』

『揺れる』(マリア・ミリサヴリエヴィッチ作)は、ベルリンの壁の崩壊後の現代をえがいている戯曲である。<わたしたち。誰でも。何人でも>というト書きは思考を揺さぶる事件だ。これは、戯曲のコスモス(ロゴス)が、反コスモス(わたしたち。誰でも。何人でも)…

MEMO

『揺れる』(マリア・ミリサヴリエヴィッチ作、公家義徳演出、東京演劇アンサンブル公演)を観劇すると、演劇は二つの真実がある。肉体を通して次第に素描され形成され均衡し明らかにされていく歴史の真実から揺れる、両義的であり続ける言説の真実が存在する…

MEMO

ポストモダンがヘーゲル感染のワクチンだったはずだがどうもワクチンが足りていないようである。ヘーゲルとはなにか?ヘーゲルの言語は近代を体系的に示した。その言語の全体の表象が成り立つ為には、言語が「精神」(Geist、Spirit)として書かれる姿をー『百…

MEMO

ここで問題提起。演劇の死とはなにか?死の演劇に交換できない死はない。死の演劇において死は存在を交換できる存在の存在の如くあるだけれどそこで交換それ自身が成り立たない不完全なものが交換の構造の外にある。意味あるその入り口が塞がれようとしてい…

MEMO

母音もまた孤立させられて、慣用によって忘れられていた太古の名詞の秘密をあかすだろう。Aは所有(持つavoir)、Eは実在(existence)、Iは力(puissance)、Oは驚き(まるく見開いた眼)、Uは湿気(humidité)したがって体液(humeur)をあらわす。ーフーコ『言葉と物…

MEMO

20世紀における存在は戦争における叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体の表象で成り立っていた。存在は死を投射した。絶対の過去が死だった。そして死から存在それ自身を投射する。死に切った過去から問われた存在はずっと死に装束だった。背後から突き刺…

MEMO

麻生は自明のこととして、「一つの民族」と言っているけれど、そもそも「民族」の語は百年前に出てきた‪近代の新しい概念。それ以前はどうだったのだろうか?言葉がなかったのだからそれが意味しているものを考えることができなかった。‬‪• 明治に出たもの…

『揺れる』ー 東京演劇アンサンブル3月公演

今年は東京演劇アンサンブルは大変興味深い現代ドイツの戯曲に取り組みます。原画はわたしが描きました。戯曲に反映されているウィリアム・ブレイクの思想を考えて表現してみました。

MEMO

今週のお題「二十歳」Noh theatre ‪「さては昔の道しるべせし、人は朽木の柳の精」‬‪「御法(みのり)の教へなかりせば、非情無心の草木の䑓に至る事あらじ」‬‪ー『遊行柳』‬初夢は、詩を語る誰かの言葉を心の中で解釈しようとしているのに、途中から口をパク…

MEMO

Chaosmos of Alle 万物のカオス(コス)モスーFinnegans wake James Joyce‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全…

MEMO

アジア思想を考えるとき、絵画における場合と同じように、点は四書の解釈のあり方を再構成する朱子学と『論語』に帰る古学であるが、点が線を作るのではなく、逆に、同一性と差異性の線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てる。外部の思…

MEMO

「祀られる神」のほかはだれもはいることが禁じられている部屋は果たして存在するだろうか?禁止を破って部屋に入ったら、そこに「祀る神」がいたというんだね。そこでこそ「私」無き「公」の「大御心」が成り立つ。だがこの話はおかしくないか?だって部屋…

フレームから考える映画の方法としての神話的思考

‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレー…

思想史についてー思想史アマチュアが書きました

講座『大正を読み直す』のときに彼の名前をはじめて知ったとおもっていたが、そうではなかった。忘れていたが、思想の歴史に関心があったがどう勉強していいのかわからなかった学生時代に、津田左右吉の本を読めと父に言われた。そのときは何か彼をとらえて…

コッポラの『地獄の黙示録』を読む

コッポラを称えるアメリカ人観光客が地図を携えて第三世界を旅行するときはいつどこでテロに襲われるかわからないという『地獄の黙示録』のなかにおいて描かれたような恐怖をもって歩いているのだろう。映画がやれることは少ないが、それ以上のことを伝える…

フーコ『言葉と物』

フーコ『言葉と物』の序文と第十章が重要な理由は何か?ラテン語の「世界という散文」よ、さようなら、と、西欧はそれ自身からの異別化を行った。近代はそれによってヨーロッパ中心主義へ行く。形式化された普遍言語を切り開く。この知は地球の隅々までを支…

フーコ

‪ 「不条理が列挙された物々の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙される<と>を崩壊させてしまう」ー フーコ『言葉と物』序章(本居宣長が「天」を「あめ」と読ませてそれがなんの意かわからないと注釈しだが、このやり方は<なかで…

フクロウ猫、憲法の憲法を書く‬

‪フクロウ猫、憲法の憲法を書く‬‪<第一条>‬‪何人も自己のまわりに明治維新の近代国家に先行した権利ー漢字と仮名をもつ権利ーを音声化から奪われない。目に見えない排他的境界線を他者中国との間にひくことを拒む権利をもつ‬‪<第二条>‬‪何人も顔を隠す権利を…

なぜ近代は古代を必要とするのか?

‪「クーオク万歳三唱」‪「クーオク万歳三唱」という文が『フィネガンズウェイク』にあった。「quoi? quoi? quoi ?」と万歳するカモメのマーク王はいったい何を万歳するのかさっぱり分からぬとジョイスは嘲笑った。ここでジョイスはアイルランド独立運動の起…

MEMO

<社説>天皇即位の儀式 権威高める手法に警戒を「大戦前の即位儀式は、天皇の権威を内外にアピールし、国民の崇拝意識を高め国威を発揚する狙いがあった。沖縄は天皇の権威の犠牲になる歴史を歩んだ。琉球併合に至る過程で、明治政府は、中国皇帝が琉球国王…

何が問題なのか? 一神教的ナショナリズムによって成り立った国家の宗教性

‪普通選挙と文化多元主義と権力分立の危機のなかであらわれてきた日本人という単一民族の幻想、ある国家でしかないのに日本国家しかないとする幻想(「ラグビーは日本を応援するのは当然でしょう?」という言説)。これらのことは、近代が自ら、国家の宗教性に…

東アジアの映画とその問題提起

台湾語の『非情城市』(日本公開 1990)までは台湾映画は全部ふきかえ(北京語)だったということの意味をよく理解するためには、十年後にアイルランド語ではじめて作られた映画を見なければならなかったのです。アイルランド語が台湾語に対応するというような単…

本居宣長の注釈を超える注釈とはなにか?

注釈を超える注釈とはなにか?宣長は「神」を「シン」と訓むべきことをいう。なぜか?そのことによって何が問題となってくるのか?先ず本居宣長が行ったのは神話の注釈である。神の道を解釈した。そこで宣長は体言と用言をめぐる中国語と日本語との言語的差…

2022年『ユリシーズ』出版100年を前に

2022年『ユリシーズ』出版100年を前に、ジョイスとノラの遺骨をスイスからアイルランドに送還するという話があるそうです。ジョイスは自分で決めた亡命でもうそれっきりアイルランドに帰ってこなかったのです。『ユリシーズ』波乱万丈の人生の最後は、アイル…

2022年『ユリシーズ』出版100年を前に

2022年『ユリシーズ』出版100年を前に、ジョイスとノラの遺骨をスイスからアイルランドに送還するという話があるそうです。ジョイスは自分で決めた亡命でもうそれっきりアイルランドに帰ってこなかったのです。『ユリシーズ』波乱万丈の人生の最後は、アイル…

西田幾多郎『哲学の根本問題』を読む

ポストモダンにおける差異の肯定も、モダンにおける差異の否定(つまり否定の差異)も、「哲学の根本問題」の思考において、分節化されることが無いのよね、このことが西田において理解されていないというか、もちろん理解しているのだろうが、読者に対してあ…