柄谷の「江戸の注釈学と現在」(1985)は、本当に、それほど注釈学だったのか?

柄谷の「江戸の注釈学と現在」(1985)は、それほど注釈学だったのか?

 

丸山真男「日本政治思想史」の問題は、想定した西欧のフレームワークに、江戸思想の地図をぴったりとはめ込んでしまう方法にある。柄谷行人が丸山の地図を批判するときこの対応のフレームワークを捨て去ることはなかった。

柄谷が解釈している言葉をひいておこう。「丸山真男は、仁斎をカント的、徂徠をヘーゲル的だと類推的に考えていますが、その意味では僕は、仁斎はキルケゴール的、徂徠はマルクス的、宣長ニーチェ的だと思います。」これは、だれがなにを代表しているのかわからないポナパルチスム的の思想地図だ。

徂徠の近代天皇制国家理念の青写真を知る者にとっては、丸山が福沢諭吉の民主主義的理念を盗んできてこれを徂徠に与えたのは驚きだ。それ以上に、柄谷が徂徠からヘーゲル的客観的精神を盗んで、これをマルクスに与えたことだ。マルクスは「礼」を得たのである。柄谷においては、これが帝国の原理となっていくのだ。

キルケゴールのラベルが貼られていて分かりにくいのであるが、柄谷は、ウィットゲンシュタインからは「教える立場」を盗んできて、これを仁斎に与えたことに注意しよう。柄谷が強調する「孔子の教え」ほど、仁斎の「学び」から遠いものはない。柄谷の「教える孔子」は結局、選ばれた同化主義となる。

選ばれた同化主義とは、教化と鞭によって「教える」。但し横柄すぎるので、僅かな非対称的のズレとして「学ぶ」スペースを残す体制。つまりマイノリティーに「仲よくしようせ」程度の学びの立場がある。この同化主義は柄谷とは関係ないが、彼に続く思想地図制作者達の帝国としての憲法案となっている。


教える立場と学ぶ立場の非対称性は、実体化すると、それ自身が「教える立場」の無意味な言説となるだろう。原初のテキストとしての「論語」が「学びの立場」から書き始めた大きな衝撃を、柄谷の探求はあらわしているといえるだろうか?なぜ「学びの立場」から始まるのか。子安宣邦氏はこう語る。

以下引用。「他者の立場にたってみる恕を人はそう容易く行うことはできない。身体を異にするわれわれは他人の苦痛をわが身に体することは難しい。だから仁斎は恕とは人が<勉強する>こと、努力することだいうのである。私が『童子問』に新たに読み直したのはこのことだ。人は努力して「恕」を行わねばならないのだ。「恕」を勉め行うことによってわれわれ日本人ははじめて、韓国の人びとに近い立場に辛うじて立ちうるのである。この努力を放棄したらどうなるか。・・・いま日本の本屋の店頭に見る嫌韓反韓の言説の氾濫から、「恕」の努力を放棄し、隣人を失ってしまって自閉する日本人の退廃が見えてくる。これは安倍がもたらした道徳的退廃である。」

他者を地図化する解釈学的教えに抵抗して、注釈学的学びとは旅である。出会う相棒の他者に依拠して生きるのだ