柄谷行人の'統整的'不確定性原理とはなにか?

柄谷行人の'統整的'不確定性原理は、<政治概念の曖昧さ>と<交通概念の曖昧さ>とを対象にする。すなわち、'政治的なもの'と'非政治的なもの'との区別が厳格になっていけばいくほど(例えば天安門事件は'政治的なもの'ではないときめつけられる)、交通概念の方は文化的に全てを包摂しはじめるほど曖昧になっていく。つまり柄谷がいう交通とは、かれが好む'形式化'という語で説明すると、限界なき広がりの'形式化'のこと。統整的'不確定性原理は、先進国における脱政治化のことが指摘され、それと相関的に、文化戦略の有効性が物語られるのだが、場合によっては、驚くべきことに、国家が主人公となる帝国主義なき「帝国」の文化戦略 (「儒教」)がいわれ、また脱政治化の停滞を打ち破るスターリニズム政党のラジカル化の方向が物語られもするのだ。毛沢東とマリリンモンローのポストモダン的結婚、と「ル・モンド」紙は揶揄したとき、柄谷好みの「形式としてのー」という修辞を付け忘れたようだ。しかし柄谷行人の'統整的'不確定性原理では、ヘーゲルマルクスおいて言われていた決定的な批判精神を見落としてしまう。それは市民社会の政治化という条件である。