ボルヘスがサッカーを憎んだ理由?

ボルヘスがサッカーを憎んだ理由?

ロンドン時代にアムステルダムでグリーナーウエイPeter Greenawayの新作についての講演をきいた。6,7年前の講演か、完成したらしい。創作意欲が尽きない!ところでアメリカを拠点にしていた、ピーター・セールPeter Sellarsやロバート・ウイルソンR.Willsonが現在ヨーロッパの前衛 (脱前衛のポストモダニズムを含む)をけん引しているようだ。ニッポンはすっかりと、こうしたヨーロッパの前衛精神から取り残されてしまってはいないか?フォーサイスを呼んできたほどのかの旺盛な文化的食欲は過去のもの。しかし、前衛精神のブルジョア的デガダンスに責任をもつ事を辞めたのが、ポストコロニアリズム時代における芸術批評だったかもしれない。批評がサッカーの意義を再発見した。グローバリズムと、エスタブリッシュメントのナショナリズムとが、W杯の一点に集まった。ただしボルヘスがいう意味で、サッカーは、スポーツから、サッカーの表象を消費する記号へと移ってきた。つまりシュミラークルの領域simulacra reignsとなったのである。 サッカーがテレビの中にしか存在しなくなったのも、愛国主義政治家がテレビの中にしか現れなくなったのと同じである。(昔は政治家(ヒトラー)は俳優を真似た。次は俳優(レーガン)が政治家になった。いまやサッカー選手が政治家となったというわけである。公約違反の本田) しかし結局われわれは幸せになったか、だ。約束された土地(優勝)を夢見た至福の観念形態のなかで、あるいは開催国のグローバル資本の立ち退きに抗議した現地住民の姿を隠しながら