What is art ? - 宇宙の生成を物語る大いなる物語 vs. 百科全書的な知識の'まずはものをみせてもらおうか'

What is art ?
鑑賞する人に、あなたはどこから来たか、どこへ行くのかという根源的な問いをその作品に感じさせれば、その作品は'アートである' とおもいます。(いま NYで見たあのシンディー・シャーマンのabject art、セルフポートレート写真を思い浮かべています。) ここで'ある'という部分を強調したのは、理由があります。つまり、この'ある'という観念性を徹底化していく芸術作品に、宇宙の生成を物語る大いなる物語を帯びないものはないということを言いたいからです。例えば、シュールレアリズム運動のように、形而上学的、超越的な問いかけを行った芸術家達は一人も再び日常性に戻ることがないほど過剰に観念的でした。これにたいして、日本ではアートといえば、観念性に先行して、 'まずはモノを見せてもらおうか'の要求がきます。実際に美術館で愛されているのは、モノとしての、知識としての作品だ...けといっては言い過ぎでしょうか?‘人間はどこから来たか、どこへ行くのか'という根源的な問いを発することが殆んど期待されていないのです。
しかしこれは、なぜ日本は世界の流行についていけるのかという秘密を明かしてくれます。具体例に沿って説明してみますと、日本でシュールレアリズムやキュビズムからポストモダニズムへ簡単に行ってしまうのですが、ヨーロッパの場合、シュールレアリズムでキュビズムでも、前述したように、作品が(宗教に準じた) 形而上学、超越的問いかけの内部に存在するものですから、ポストモダニズムの時代だからといって、そう簡単には、シュールレアリズムとキュビズムを捨て去ることは起きません。映画界のゴダールは最後のシュールレアリストであります。
一方、日本のアートは、百科全書的な知識の'まずはものをみせてもらおうか'という枠組みによって、古くなった知識と新しい知識をなんの葛藤もなく簡単に交換されてしまうこともできてしまうというわけです。興味深いことに、実はこれと同じことが、江戸時代において生じました。大阪の儒学者たちの間で、次第に、儒学は'物理'の百科全書的な知識として発展をみることになうですが、そのおかげで、外から西欧の知識が入ってきてもなにも困らず翻訳ができたといいます。一方、今日世の中が大変気にしている、'日本人はどこから来たか、どこへ行くのか' というナショナリズム的言説を構築していくのは、宇宙の生成を物語る大いなる超越的な問いかけの思想家たちからでした。