二十世紀の精神とは何であったのか?

二十世紀の精神とは何であったのか?

1、マルクス「資本制生産に先行する諸形態」とはなにか?ヘーゲルは「世界史」的展開の必然性をもたないオリエントを「東洋的停滞」「東洋的専制」の名でとらえた。それに対してマルクスは資本主義社会への発展の必然性を内包しない社会を規定する根拠を「アジア的生産様式」の名でとらえたのである。
2、柄谷「世界史の構造」は、このアジア的社会構成体を構造的に読んでいる。これについては、ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オィデプス」では、<互酬性>的な大地という野蛮な社会的身体、その外部をなす、<収奪と再分配>的な 王の官僚機構の残酷な社会的身体のことがすでに物語られていた。
3、「アンチ・オィデプス」は、資本を分析する場合、柄谷のようには再び構造主義的に分析することはなかった。資本主義社会への発展の必然性を考えるときためには、再び、資本主義社会への発展の必然性を内包しない社会...を規定する「アジア的生産様式」の構造分析に依拠することができなかったからだ。
4、渡辺一民の「二十世紀精神」は、ヘーゲルの名を口にしなかったが、「精神現象学」がいう精神がいかに絶対知を得るかという問題意識に沿って展開した。(市民社会の語も慎重に避けたが)、 市民社会がいかに近代の自己疎外(資本主義)を乗り越えていくか?講座は二十世紀の考古学的な語りであった。
5、だから「二十世紀の精神」は、反ドルフェス派モーラスと、ドルフェス擁護派ペギー、この立場を異にする両者が、金に支配されブルジョア社会への危機観を表明することで一致をみる19世紀の歴史から始まるのは当然であった。それは今日におけるグローバル資本主義を見渡すために欠かせなかった。
6、二十世紀日本とは百年前の大正が作った。大戦と革命とヴェルサイユ体制と、世界史の中の日本は大正から読み直すこと。大正デモクラシーを称えても朝鮮と台湾を植民地化したこと、二十一世紀原発再稼働と集団的自衛権に反対してもアベノミックスの安倍を支持すること、この両者の根底に貨幣がある。
7、構造の言説(連続性と構成性と体系性)では、貨幣の不断に<一>構造が他の<多>構造を収奪する直進的必然性を捉えるのが難しい。ポスト構造主義構造主義批判であったのは、資本主義の絶えざる連続性の切断と再構成と拡大する体系性、その中心なき中心に貨幣が存在することを見抜いていたからだ。