いかに、フーコ的に、異なる時代にずれ込む言説の地層をく読むかー フランス革命とワイマールとナチス

いかに歴史を読むか?いかに歴史を書くか?

ヨーロッパにいたとき、異教徒の私に神の被造物か?と有難く質問する者がまだいたが(笑)、中世の時代には、アリストテレスのー天と地の間の連続性ーの言説が対抗的にあったという。生きし生けるものの各々に固有権が与えられた。王に対する封建貴族の反乱もこれに依ったのである。西洋政治思想史は明確な答えを出していないとおもうが、恐らくはこの固有権は自然権として再構成されていった。そして社会契約説の自然権的言説が新しく確立した後は、絶対君主が何からも制約されなくなるのだー市民革命のギロチン台までは。と、なんだか世界史の教科書みたいなことをうっかりと綴ってしまったが、これについては渡辺氏が大変ユニークなことを語っていたことを思い出した。(例の池袋駅前の大衆喫茶店で。) フランス革命と革命後の革命と反動の百年間が、120年後に、ドイツにおいてわずか30年間の間に集中的に繰り返されていた可能性がある。そうでなければ、20年後にナチスを現出させる、ワイマール共和期からあれほどの極端に行く混乱を説明できまい、と。フーコ的にいうと、渡辺氏は、異なる時代にずれ込む言説の地層をかくのごとく読んでいたのである。渡辺氏は、(相対的に) すすんだ他者とおくれた他者の両方をみる視点の必要性について語るのを好んだが、そのようにして知覚されてくる地層のズレの総体が歴史の空間として措定されてくる。いかにして歴史を書くか?おそらくこの空間は、知にとっては、平面ではなく寧ろ曲面として書くことがより相応しいものであろう。