方法としての「歎異抄」 - 子安宣邦「歎異抄の近代」(白澤社)の感想文 (本多敬)

方法としての「歎異抄
- 子安宣邦歎異抄の近代」の感想文 (本多敬)

1、方法としての「歎異抄

世界資本主義の誕生は12世紀に遡る。富の蓄積は教会に。逆に貧困の進めが貴族に大流行した。聖書の字面から貧困を学んだフランシスコは、平等を説くマルキシズムよりも遥かにラジカルだった。同時代の親鸞は、往生還相へ行く。教行信証の学問僧の教えは、ウィットゲンシュタインにおけるラジカルな哲学復帰を喚起する。「言葉と物」「外部の思考」のバタイユブランショアルトー・クロソフスキーの読みの問題は、二十世紀の解釈学に、17世紀の注釈学的視線がいかに遅れて批判的に介入してくるかを考古学的に考える問題であった。ポスト構造主義の「歎異抄の近代」では、二十世紀の昭和思想に、十二・十三世紀の「歎異抄」、「教行信証」が介入してくる。やはり、子安氏の親鸞にアプローチする方法は、仁斎の「論語」にアプローチしてきた方法...を踏襲している。「歎異抄」という<読むことが不可能な>テクストを、近代がいかに解釈し、そこのとによって自らの言説を構成してしまうことになるのかを子安氏は検証してきた。つまり、「歎異抄の近代」とは、方法としての「歎異抄」になっていく必然性があったのである。

2, 三木清を称えよう
ー死を徹底的に観念化する世界思想性から疎外されている日本人の限界をみた

滝沢ー西田の「弥陀本願」は、超越者を侵犯していくために必要とされた超越者の思想的な措定であった。その措定は、日本の土着的な汎神論的自然観とは鋭く対立した。が、倉田百三 (「出家とその弟子」) と 丹羽敏 (「菩提樹」)、この非常に大正的であり自然主義である故に'日本'的な作家であるこの両者が、滝沢ー西田の超越者の思想的措定を台無しにしてしまう。それは、テクスト「歎異抄」の内部に、'親鸞'という超越的な<起源>を見出すことによってである。このことは、「歎異抄」の暁烏敏の発見とは無関係にあらず。暁烏の「歎異抄」の発見はひとつの神話としてあったから。その正体とは、近代が発明するー自己の肖像画の為にー''親鸞'を実体化する言説だった。滝沢ー西田の超越者の思想的措定が真に意味をもったのは、三木清においてである。そのラディカルな批評精神は、<戦う国家として自らを自らの為に祀る国家>を拒む。戦争国家が自らの栄光を称えるために自らを一体化していく象徴的な<過去>を拒む。そのために三木は「末法」を導入する。「末法」を自己と世界との間に介入させる。他者としての「末法」は、<死に切った過去>しかもたないから、そこにおいては国家が自らを永遠の超越者として勝手に祀る余白が許されないだろう。「歎異抄」の三木の「末法ー内ー存在」は、ハイデガー的和辻の「世界ー内ー存在」を超える子安宣邦歎異抄の近代」の課題は、この反時代的な三木においてまだ書けなかった問いの部分を書くことにあった。即ち、絶対的他力者は現実の社会でどう生きていくか?

"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"という人々は、原発憲法を失ったかわりに何かを獲得できるとばかり安倍内閣を支持している。それによって限界なくグローバル資本主義に絡みとられていく。それにたいして、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる'というのが、私の他力的な構成。原発と軍隊とグローバル資本主義から何も獲得できないときにも、失うことができるそのなにかとは、自己のなかで、息苦しい全体主義に対してなお捨てきれずに抱いていたかもしれぬ、再びかれらがなんとかしてくれるのではないかという曖昧な僅かな希望である。
「末法」とは、安倍の集団的自衛権原発体制の近代である。無力な無数のひとりの人間が、われ=われ。いわばこの絶対的他力者について小田実「世直しの倫理と論理」(1972)が語っていた。小田実が生きていたら何を言うか?永遠に巻き込まれることに、STOP ! 巻き込まれながら巻き返していく。

3, '精神主義'の清沢満之エピクテトス的抵抗

日本軍の慰安娼婦の問題は、日本の戦争責任の問題である。「他国にも同じようなことがあった」は、日本の戦争責任を曖昧にする許し難い態度です。これと同様に、今村仁司等のオタク知識人達ーいわゆる'フランス現代思想'ーが、日本の暴力の問題についてレヴィナスの暴力論(ナチズム)を援用するとしたら、やはりそれも日本の暴力の問題を曖昧にしていく許し難い態度ではなかったでしょうか?例えば、今村は清沢満之を語ったとき、清沢が直面した暴力の問題を語るべきでした。明治時代は国家の時代でした。したがって必然として清沢満之が衝突したのはまさに、この国家だったのです。具体的には、国家が教員制度を通して宗教(真宗)を管理しはじめたことに、清沢は激しく抗議したのです。「精神主義」の清沢満之のエピクテトス的抵抗は、たとえば鈴木大拙における浄土の国土的表象からはかけ離れたとものです。しかしこの清沢の怒りは、今村のようなヨーロッパとの同時代性を誇る'フランス現代思想'の知識人たちには決して共有されることはありません。いかに国家の暴力が'無限'(清沢)を囲い込んでいくかということにかくも鈍感であること、これは近代から現代の日本知識人たちの立ち位置を端的に示すものです。

4, 「歎異抄」は近代の知識人を惹きつけたように、野間宏吉本隆明を惹きつけたのだろうか?否・・・

吉本は親鸞から宗教を差し引いたとき全部が無になる危険性を避けるために、「思想詩」「思想劇」で条件づけたのではないだろうか。詩のモローグ性と演劇のダイアローグ性は異なる。しかし「思想詩」といえ「思想劇」といえ、吉本自身の声を語っている上で両者に大きな違いはない。かくも他者の名で、ずーずーしく(笑)、自己自身を物語ったのは、ほかに、「本居宣長」の小林秀雄ぐらいだろう。が、この思想は他者を語れなくなる。これが「最後の親鸞の吉本のパラッドクスだった。詩人はいかに、自分の思想の壺の中から親鸞という他者の名の蠅を脱出させるか?それが問題だ。
ところで、野間宏「わが塔はそこに立つ」の場合は、近代国家という壺の中にはめ込まれたものをただ「民衆」と呼んでいた。マルクス主義的な歴史観の内部に見出した「民衆」が文学の語りの内部に再発見した父的'親鸞'の固有名において重ねられていくのは、和解できない<過去>を大地に埋めていくようなカタルシスというほかないのである。
それにたいして、「最後の親鸞」の吉本隆明は、自らの思想を自己移入的に「信」と「民衆」(野間)の内部に根拠づけることはしなかった。知識人の「俗」(「大衆」)に寄り添いながらも「俗」(「大衆」)でない、「信」と「不信」の間への脱出を考えていたからである。そうして外部の愚者と成った蠅は、<往相>と<還相>を行き来するだけである。

「吉本が親鸞についていう<衆生>は、服部や野間がその親鸞論でいう<民衆>の対極にあるというべきだろう」(子安)
「戦後思想としての吉本の発言をほかならぬ吉本のものとしたものが<大衆の原像>であったとすれば、吉本の親鸞を吉本の親鸞論にするものは<衆生の原像>であるだろう。'親鸞にできたのは、ただ還相に下降する眼をもって<衆生>のあいだに入り込んでゆくことであった'という言葉には、吉本にしかできない親鸞の読み方がある。(子安)
「<非知>とは親鸞において<非僧>;である。<非僧>とは寺院的知識の体系を負った僧における自己否定の運動である。知識人が己の知識の自己否定を続ける知識人の運動を<非知>と見れば、最後にうたる親鸞をこの<非知>の運動を貫き通したものとみなされなくもない。」(子安)

近代知識人が語る「歎異抄」の言説しかないのである。思想の問題とは、言説の交通の中に囚われた人間が、これに巻き込まれても永遠に巻き込まれないようにと、いかに批判的な外部性に存在するかにかかっている。その外部性は、自己自身の声からは見ることが不可能なほど外部にあるに相違ない。吉本のレトリックがいうようには、思想が自己称賛の詩と演劇の声に依存するのは無理だ。思想を読むこととは、外部から自己自身を規定してくる読むことができなエクリチュール性を見ることであるー他者の眼差しのうちに、壺から脱出した蠅の眼差しのうちに(外から窓をたたいている)

5、「歎異抄の近代」を読むjことの倫理性

最後に、「歎異抄の近代」について自分が書き綴った感想文について顧みる。本というのは、作家のこだわりに座礁していると中々読めないもの。これは‘異様なもの'をまえにした直観の揺れかもしれない。そういう場合は、この子安氏の本の感想文のように、何とか諸々の要素に分解して分析していくと読めるのかもしれない。しかしそうして本の出口に立ったとき、最初の悍ましい違和感がすっかりと消えている。最後の最後に来て、分析そのものが無意味に思われてくる。本当に読んでいたのかと疑いはじめる。(この空白感は、直観と分析は共通のものが無いことを告げているのかもしれないーカントがいうようには統覚的な枠組みがない)。「歎異抄の近代」についても、やはり序章で引いた言葉にかえっていくのである。結局、原初的テクストの言葉を提示するだけで十分だったのだ。感想文などは余計な解釈である。原初の言葉を称えよ!なにも変えるなーすべてを変えるために!!

親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」

「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろさかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、ただ唯円おなじここりにてありけり」