大正はなにを書くのか?

大正はなにを書くのか?

 

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
萩原朔太郎「純情小曲集」(大正14年)

 
明治の巨人と昭和の巨人のあいだにはさまれてた大正はそれほど存在感がありません。書店の棚にも、関東大震災の話題をのぞいて、大正の本をあまり置いていないようですね。しかし重要な事柄は全部大正のときにできてきます。'社会'と名のつくものは全部、大正のときに生まれてきました('社会政策'、'社会運動'、'社会主義' 等々)。明治が追及した、植民地をもつ日本帝国主義はこの大正からです。また子安氏が強調するように、なによりも戦争の全体主義のまえに、昭和に先行して、原敬内閣のもとでアメと鞭の国民統合(普通選挙法と治安維持法)が大正期に確立しました。ちなみに父は大正最後の年に生まれたので、尊敬した'原敬'の名をとって私の名にしましたが、将来ジャズミュージシアンになったら 'K'とも読める名前がいいとおもったとも真相はよく分からないのですが(笑)、兎に角、欧州の総力戦の荒廃に匹敵する関東大震災の後に、ヨーロッパのアバンギャルドが受容されてくるのも大正時代でした。さてヨーロッパとの学問の同時代性を意識しはじめた大正の知識人たちは、東洋のラテン語であった漢文エクリチュールを読めなくなっていました。この場合、失われた普遍言語は何によって回復するのでしょうか?留学生達が依拠したドイツ語等のヨーロッパ語だけではありません。新しい時代の普遍言語を構成していくものとして、芸術の言語がありました。萩原朔太郎の詩「黒い風琴」を読むと、新しい時代の息吹を読み取ることができます。しかし単純ではありません。大正のアバンギャルドは本当にそれほどアバンギャルドであったか?実際に朔太郎の詩は、街を観察した庶民的な詩「大渡橋」を経て、全体主義の昭和十年の前年に、漢詩のような「帰郷」を書くに至るのですね。これは何を意味するか?つまり漢文エクリチュールは、詩人において、完全には消滅していなかったということではないでしょうか。恐らく萩原朔太郎はフランスのシュールレアリズムのようにはそれほど神秘的な声を信じていなかったのですが、ただ事実の呼びかけに信を置いていたと思います。時代を注視し、われわれが生きる場所、われわれを取り巻く正確な状況、そしてそこが導き出した呼びかけを見極める、判断を下すのはそれからだというふうに。こうした呼びかけは、反時代的に、漢詩的な漢文エクリチュールにおいてしか表現されえなかったということが大変重要なことだとおもいます。
 
 

黒い風琴

おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あんたは黒い着物をきて
おるがんの前に座りなさい...
あなたの指はおるがんを這うのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふっている音のように
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。

だれがそこで唄っているの
だれがそこでしんみりと聴いているの
ああこのまっ黒な憂鬱の闇のなかで
べったりと壁にすひついて
おそろしい巨大な風琴を弾くのはだれですか
宗教のはげしい感情 そのふるえ
けいれんするぱいぷおるがん れくえむ!
お祈りなさい 病気のひとよ
おそろしいことはない おそろしい時間はないのです

お弾きなさい オルガンを
やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときにの松葉のやうに
あかるい光彩をなげかけてお弾きなさい
お弾きなさい おるがんを
おるがんをお弾きなさい おんなのひとよ。

ああ まっくろのながい着物をきて
しぜんに感情のしずまるまで
あなたはおおきな黒い風琴をお弾きなさい
おそろしい暗闇の壁の中で
あなたは熱心に身をなげかける
あなた!
ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。

(萩原朔太郎「青猫」大正12)

 

大渡橋

ここ長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり...
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自転車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢えたる感情は苦しくせり。

ああ故郷にありてゆかず
塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤独の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいっさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢えたり
しきりに欄干にすがりて歯を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頬につたひ流れてやまず
ああ我れはもう卑陋(ひろう)なり。
往くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野は暮れんとす。

(萩原朔太郎氷島」大正14)

 

帰郷

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば...
汽車は闇に吠え叫び
火焔(ほのお)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何処の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向かへり。
砂礫(されき)のごとく人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗澹として長なへ生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや
汽車は荒野を走り行き
自然の寂寥たる意志の彼岸に
人の憤怒を激しくせり。
(萩原朔太郎氷島」昭9)