帝国デモクラシー vs.グローバルデモクラシー

帝国デモクラシー vs.グローバルデモクラシー

柄谷行人は、グローバル資本主義の問題を考える上で、民族と国家の問題を知るべきだという。「資本論」の限界はなにであったか?それは資本の問題だけを論じていて、民族と国家の関係を捉えていなかった点にあると見抜いた。しかしそこから柄谷は、青年マルクスの民族と国家の関係を論じたテクスト(例、「経哲草稿」)に向うことはない。ここで柄谷は唯一のテクストとして「資本論」に依るとはっきりいう。この「資本論」に明白な記述がなくとも、文と文の余白から、民族と国家についての記述を読み出すことができたとすら彼は言い切るのだ。「資本論」を前にすると、日本知識人たちはなにか絶対的な存在の前に出たというようになるが、柄谷もそうである。しかし21世紀グローバル資本主義の問題を有効に解決できなかったテクスト(「資本論」)の問題を解決するために、再びそのテクストに委ねていくことはいかにして可能なのだろうか?テクストに書かれていないことは書かれていないのである。書かれていないときに書かれているとするのはなぜか?つまりそれは、書かれていない...ことと書かれていることを同一化しているからだ。あるいは、同一化の無意味さを隠蔽するような言説が機能しているではないか。
さて柄谷のこのような<唯一のテクスト>の問題は、<唯一の空間>を構成する言説の問題に顕著にあらわれてくることはけっして見逃すことはできない。柄谷は、「天命=民意」なければ分割なし、つまり自由民主主義的な体制はゆるされない、と主張する。この言葉は、国家の中の国家をみとめることはできぬという19世紀的国家主義の言葉でないとしたら、グローバル資本主義を解決するためにオキュパイ運動のようなグローバルデモクラシーがあらわれてきたことを理解できていない思想家の言葉である。それは帝国デモクラシーとよぶべき危険な言説を構成しはじめている。柄谷が擁護する<唯一の空間>こそは、グローバル資本主義を推進してきた、したがってグローバルデモクラシーを抑圧してきた構造なのである。そしてこの<唯一の空間>の問題を解決するためには、再びこの<唯一の空間>に委ねていくことは不可能だし倫理的にも許されないと私はかんがえる。だから柄谷に問おう。すなわち、デモクラシ一は存在していないときに存在していないのである。デモクラシ一は存在していないときに存在しているとするのはなぜなのか?言い換えれば、デモクラシ一は存在していないときに、「天命=民意」として存在しているとするのはなぜなのか?柄谷は<唯一のテクスト>のときと同じ幻想に絡み取られていることが容易にみてとれる。つまりそれは、柄谷において、存在していないことと、存在していることが同一化されているからだ。あるいは、繰り返しを恐れずにいうならば、同一化することの無意味さを隠蔽しているという言説のあり方が思想史においてわれわれが取り組むべき問題となってきたのである。

 

☻子安的なグローバルデモクラシーは、

✔<精神の市民社会>(マルクス的に、ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である)、
✔<語る民主主義> (小田実的に、小さな人間が大きな人間をただすこと)、
✔<脱民衆史> (国家に囲まれただけの人々に、あたかも果たせなかった真の近代を実現できるとするユートピアの主体性を読みださないこと)

 

それにたいして ☹柄谷的な「帝国」デモクラシーは、

✔<交換の市民社会> (なんでもかんでも交換が支配するとみなす視点)、
✔<選ぶ民主主義> ('学生と貧困層は帝国の「民主」に干渉するな')、
✔<民衆史> (民族の語彙で国家に囲まれた人々をユートピア化・実体化する言説。過大評価と過小評価の間を揺れるが、近代が自らの'優越性'を正当化するために対抗的に捏造した'劣等性'の言説)