安丸良夫「現代日本思想論」(2004)を読んで

安丸良夫「現代日本思想論」(2004)を読んで


 11、思想史というものは、認識学と倫理学倫理学がいかに互いに影響し合いながら発展していったかをみていく学だと言い切ってもそれほど間違いではないだろうとおもう。たとえば、ロールズの公正の正義論は、功利主義批判のときに必要なウィットゲンシュタイン的認識(批判)論をもっている。ウィットゲンシュタイン的認識(批判)論は、アートを定義するか(そもそも定義は不可能であるのか)をめぐる表象批判の論争を導いた。(実際にロンドンのテートのワークショップではこれにもとづいて展開されていたのを覚えています)。この英米系現代芸術論に反論していくのがまさにフランスのポスト構造主義であった、というふうに思想史の時間軸に沿って考えることができる。思想史という名の<他と干渉し合う>プロセスを観察するということを意味している。思想史は方法論的な自覚をもっている。日本思想史の場合は、ポスト構造主義の他に、カルチュアルスタディーズ、ポストコロニアリズムに規定されながら顕著な批判精神を発揮してきた。「方法としての日本思想史」は、自らを相対化するほどの批評性を自負した言葉かもしれない。が、今日敏感な知性からは、ついに日本思想史から「日本」の語を取り去らなけれなならないと嘆く声がきかれるようになった。つまり「日本」は危険なナショナリズム的な方向づけを包摂するに至ったが、このベクトルの基底のひとつに安丸良夫の民衆史的日本思想論があり、これはまさしく子安氏が批判するものである。<方法としての思想史>としては、自らを再定義することは起きない、安丸の民衆史の問題については後で詳しく触れよう。さてポスト構造主義の知識人は、あとにエコロジー的視点を得て、(地球環境を成り立たせなくしてしまうほどの永遠の成長の夢にかられた)資本主義の暴力的ともいえるほどの「発展」の必然性を分析していった。この点に関して、嘗てポスト構造主義の論客であったにもかかわらず、現在の柄谷の「帝国」論には、資本主義の必然性の分析が欠落しているという印象をもつ。21世紀のグローバル資本主義から起きてくる必然的な動乱を全部、'民族主義'という19世紀的語彙で枠づけてしまうからだ。「帝国」論を読むと、ポストモダニズムの言説からマオイズムにたいするノスタルジーを構成するというというポストモダンのモダニズム的言説に並行して、(中心と周辺に、亜周辺を新たに付け加えただけの)構造的に捉えた天皇的民衆像をアジアに投射しているだけ?)。なににであれ、ナショナリズムを超えると期待される?、この代表的な日本知識人の'普遍主義'の言説は、しかし、その環境として民衆史からの規定をもつかぎり初めから大きな限界があるのではないだろうか。ポスト構造主義は、日本においては、(批評精神を失った) 80年代・90年代のポストモダニズム的消費社会論の内部に絡み取られていった。ポスト構造主義の武器であった(反)精神分析+フェミニズムは、民衆史のヴァリエーションであるポストコロニアリズムのナショナルな言説の方へに移動させられていったのである。ただ、ポスト構造主義は、文化資本の中に消滅しきったわけではない。この<啓蒙的主体>批判の言説は、80年代に新たにフーコによって言いだされたカント的主体論によってまだ持続しているといえよう。これは(一度死にきった)市民社会論の再構成を意味しているのではないかというのが私の意見である。実際にフーコは啓蒙を批判した啓蒙主義者という側面がある。この点について安丸は自分とフーコとの違いを説明している。かれによると、決定的なのは、フーコには民衆意識が重要ではないという点です。

「フーコがとりわけ注目するのは権力だが、その場合の権力とは国家権力ではなく、人間が主体化されるさまざまの様式の中に働いている技術であること、それは真実や愛や人間性さえもつくり出していること、およそこうした次元の方がフーコの主題であって、近代の学問や知の自明的な前提や思い込みへの原理的な批判を提示するところにフーコの立場がある。フーコは、史料にもとづく具体的な分析をしているようにみえて、こうした原理的抽象レベルがフーコの主題であるために、歴史家の関心とは大きく異なった方向で論じられているといわなければならない」

「たとえば近世後期に国体論が急速に大きなイデオロギー的役割を果たすようになって、維新変革が幼い天皇の権威を前面に押し立てて遂行されたことの根拠や、1920年代なかば以降に国体論イデオロギーが重大な意味をもつようになった背景には、権力構造と政治過程に即した分析だけでは説明しきれなだろう。平常は殆ど意識化されないような社会の構成原理が危機的な状況のもとでゃ浮上してくるかもしれないし、国家の正当性原理とそのコスモロジー的根拠づけのなかにも複雑な葛藤があって、危機的な状況のなかではそうした諸契機が思いがけないような意味をもつようになって、権力構造の規定要因なるかもしれない。日常的に存在している生身の天皇とそれを取り囲む人間関係や諸勢力、憲法や法律に規定された、それ自身大きな矛盾を孕んだ権力規定としての天皇制、天皇制をとり囲みそれを支えているイデオロギーコスモロジーとしての国体論、またその例外状況での特殊な役割、民衆意識に根を降ろしている権威崇拝や神観念'」

ここでいわれていることは、結局フーコは民衆意識にはかかわりがない、ということである。そしてここで、安丸の民衆史は、フーコが依拠する観念的構成にしたがうことはできないとするということだ。では安丸の「民衆意識」とはなにか?かれはこう語る。

「「民衆」や「大衆」とは私たちの生きる世界の全体性を眺めるさいの方法概念なのであり、そうした方法概念とそこの固有の立場性なしには、私たちは有意味な認識ができないのだろうと考える。正直な話、私たちは誰も自分は民衆について、たとえば日本のそれについて、よく知っているとのべることはできないとおもう。私たちが知っていると思い込んでいるものは、そこになんらかの内実があるとしても、それはきわめて限定された視覚と素材からのことにすぎない。しかしそれだからといって、自分が十分には理解し得ていないそうした大問題に言及しないのが知的に繊細で洗練されているとか誠実だとかというわけではない。私たちが私たちの生きる世界に向き合って生きようとする限り、この世界の全体性を民衆の生活を介して表象しようとする努力を止められるはうがない、と私はおもう。」

だが、われわれの外部にある他者が、われわれが誰であるかを見ているのではないだろうか。つまり、われわれは誰であるかは、外部の視点なくしては定立できないとは考えなかったのだろうか?安丸がいう「世界の全体性」には、外部の視座が欠落している。安丸は、「この世界の全体性を民衆の生活を介して表象しようとする努力を止められるはうがない」とまでいうのならば、たとえば、東アジアの民族主義的対立という現状についてもかれは発言しなければならないはずだが、そうして、東アジアの民族主義的対立という現状をいったいだれが望んだのだろうかとかんがえたときに、安丸の民衆論は最終的には、「民衆意識」を指すことになるかもしれないのだ。だがそうならば、そんな国家に囲まれただけの人々の「民衆意識」を分析しても一体なにがみえてくるというのか?安丸自身が答ることになrつだろう。ほかでもない、「民衆意識」の内部から内部に即して語るとき、「私たちは誰も自分は民衆について、たとえば日本のそれについて、よく知っているとのべることはできない」のである。この点にかんして、子安氏が指摘するように、「われわれアジア市民はそれを望んだりはしない。国内危機を国際危機に転化させていったそれぞれの国家権力の担い手たちが望んだことだろう」というのが本当ではないかとかんがえるのである。つまり、「われわれアジア市民」というカント的主体の構成の必要性のことが指摘されている。安丸はこの「われわれアジア市民」を、「民衆意識」によって根拠づけられなければそれほど意味がない「大きなイデオロギー的役割」とみなすかもしれません。現実には、それとは反対の「民衆意識」を読み出すことから、「われわれアジア市民」を無意味だと結論する可能性が大きいのである。だが大切なのは、「われわれアジア市民」という理念性を介在させなければ、われわれ自身が立ち行かなくなるということではないか。安丸の民衆史に先行するのが、この「私たち」と安丸自身もみとめる理念性ではないか。そして安丸がみとめる「例外者」や「少数者」の役割のうちに、なにが問題なのかについて正す言説が提示されるとき、「私たち」は自らのおかれた「現実」を相対化していくものなのではないか。それが「私たち」の歴史だったのではなかったか?そうして つまり思想史の中心にあるのは、「民衆」ではない。中心にあるのは、グローバルデモクラシーとともに「知る」ことであると私はかんがえる。