なぜ人々は金を数えるのか?

なぜ人々は金を数えるのか?

アイルランドの友人がイギリス人の金のことばかり喋ることを憂うときに、'プロテスタントの病'といってため息をついたものでしたが、イギリス人が書いた「ロンドのバイオグラフィー」という本を読んだとき、イギリス人は金が好きなのではなく、明確性が好きなのだ、と説明していました。これは、いかに金を数えることができない人々がいるかを嘆いているようにも読めます。つまり、常の事として、英国の<他者>であるアイルランドを皮肉っています。そうして一生懸命屋さんのイギリスの「文明化」のおかげで、純粋無垢に曖昧な世界に眠りこけていた怠けていたエデンの園が覚醒したとする、(よけいなお世話?)、オリエンタリズムの語りが成り立ちます。ただしもともとはイギリスはカトリックの国でした。ステレオタイプ的には、ローマ・カトリックは「精神世界」の明確性の帝国ということ。地理的にこの中心から遠く離れて端っこにあるアイルランドにも明確性によく似たものがなくはないのです。アイルランドの作家ならば、スコットランドのヒュームにしたがって、<想像力=曖昧なもの>、とした...うえで、<曖昧なもの>の否定、というふうに構成的に行くのです。結局、このような明確性の定義は、<曖昧なもの>から出発する以上、常に、<曖昧さ>とは<曖昧さ>であるのに、なぜそれが<曖昧でないもの>であり得るのか、というスコラ哲学的な?アイロニーの問いを含むことに注意しなければなりません。この頑固な同一性が案外、イギリス人を言い負かすときに大事だったりする(爆)。ま、いいのですが(笑)、はじめの問題提起は、なぜイギリス人は金のことばかり喋るのか?でした。実はこれは正しくありません。なぜブルジョアは金のことばかり喋るのか?、それはかれらは明確性を好むからだ、という問答ならば、正しい構成です。歴史的なことをいいますと、産業革命以降、ブルジョアに打ち負かされてくるイギリスの貴族は、対抗的な反ブルジョア的な価値観を発明していきました。そして負け犬である貴族の価値観はアイルランドに輸出されていきました。それは、実は、曖昧なものを重んじる神話的な想像力、のことでした。アイルランドナショナリズムはこの英国上流階級の価値観を住処にするのですが、これは少し考えてみれば大変な矛盾であります。演劇の世界では、オケーシーO'caseyのリアリズムがこのような神話的思考に対抗していくことになります。ロマンティックな神話的イェ―ツと、神話的リアリズムのジョイスとの間の愛憎相半ばする関係を理解するときも、やはりこのような階級の視点が絶対に欠かせないとわたしはおもいます。