石川啄木は新聞がいかに<大逆事件>を作り上げていったかについて書いていた。集団的自衛権と秘密保護法の今日において、この啄木の証言からなにを学ぶか?

石川啄木

・啄木は新聞がいかに<大逆事件>を作り上げていったかについて書いていた。小林検事正の談話を載せた東京朝日の記事にこういうことが書かれていると啄木は明治44年(1911) に証言する。
「同人(新村忠雄)は社会主義者中にありても最も熱心且つ過激なる者なるより、自然同地(長野県屋代町)は目下同主義者の一大中心として同志四十名を数へ居る事、及び現在日本に於ける社会主義者中、判然無政府党と目すべき者約五百名ある事を載せたり。」
・東京朝日新聞はあたかも検察当局とともに社会主義者捜しをやっていると啄木は証言しているのである。同年6月21日、東京朝日新聞は「無政府主義者の全壊」という記事を掲載した。...
「和歌山に於ける大石、岡山における森近等の捕縛を最後として、本件の検挙も一段落を告げたるものとなし、斯くて日本に於ける無政府主義者は事実上全く滅亡したるものにして、第二の宮下を出左ざる限りは国民は枕を高うして眠るを得ん云々の文を掲げたり」
・これを読めば<大逆事件>を作り上げていったのは山形有明桂太郎・平沼駒一郎といった国家権力の中枢だけではない、新聞などマス・メディアの側もそれに一役も二役も買っているのである。<大逆事件>とは新聞情報が大衆的意見形成に大きな意味をもつ時代の始まりを告げるような国家的な事件であったといえるだろう。
・<大逆事件>が戦後日本でなお<大逆事件>であり続けているように、社会主義を縊り殺そうとした国家犯罪の大きな傷跡はいまも癒えることがないように私には思われる。<大逆事件>から一世紀後の日本は社会主義をその政党とともにほぼ消滅させてしまったのである。(子安)