意外にもイギリスの「仁」もあれば、驚くべきアイルランドの「仁」もある、という話

対談で富岡多恵子が大阪漫才のダイアローグ性はインテリのマルクシズム的弁証法に依ると指摘したが、それならば「論語」の思考の方でしょう。ボケとツッコミの問答から「仁」の定義を拾い出すのは無理です。「論語」集団に自明な定義だから書いていないからだとかんがえられます。「論語」集団は漫才師の元祖だったか(笑)。カント的に、「仁」をいかに実現するのかという方が彼らの大問題だったといえるでしょう。実は、これは、地域紛争を読む視点として役立つようにおもえてきました。<政治災害は眼を閉じていれば自然に過ぎてくれる>というような瞑想型相対主義の人間は、遠い異国のなにもかも自然災害のごとく宗教の紛争として整理してしまいますけれど、「理想」の言説の展開にかんする微細な観察力と思考力が決定的に欠けているようにみえます。簡単なことではありませんけど、マスコミが世界の事件を伝えてくるとき、政治と認識の間に展開するダイナミックな運動についてわれわれは(マスコミとは) 違う視点から知ることができるはずなのですが意外にもイギリスの「仁」もあれば、驚くべきアイルランドの「仁」もあるのです。日頃口には出さぬが、心の中で彼らは互いに「人殺し」とおもっているから、互いに相手の「仁」を人殺しの教義と思っているところがあります。だからこそ、「仁」の定義は敢えて行わず、「仁」を実現する実践的な方法に彼らの共通の関心があるようにおもわれます。ただし現実の交渉の過程で深まっていく不信感に直面して、どうしても両方の国家を超えた「仁」、愛にかんする「理想」を想定しなければが<われわれは続けていくことができないのだ>という認識が必然的に生じてくるのではないしょうか。