信 trustworthiness (2)

信 trustworthiness (2)

 

安倍は「信を問う」というとき、ここでいわれていることの意味は、政は信です。この「信」は、憲法前文の主権的概念の「信託」を意味する前に、まず儒学思想の「誠」を意味する「信」であります。この一例からわかるように、日本の政治の根底に儒学思想があるといっても過言ではありません。ところが小泉から安倍まで保守の政治家たちは自分たちでよく勉強しているつもりでも、勉強の仕方に問題があるようです。思想の質が非常に悪いといわざるをえません。なんなら、誰にも門戸を開いているから、左翼たちが「論語」を読んでいる「論語塾」のもとに勉強しにくればいいのに(笑)。
さて儒学思想の伊藤仁斎はカントと同時代です。だから18世紀のカントを仁斎によって説明できますし、仁斎をカントによって構成することが可能なのです。社会主義の政党が事実上消滅してしまった現実にたいして、社会主義思想の再建にカントの読み直しを利用していくことは一定の意義をもっています。実際に柄谷行人はカントを読んでいきました。が、カントからマルクスへ移行するときに、「資本論」へのこだわりで躓きました。「資本論」が依拠できる唯一の他者であるとしながら、「資本論」で言われていない'国家'と'民族'の意味を読みだしたのは破たんです。が、このように破たんした、かくも無理な「命がけの飛躍」がなければ主体としての自己が成り立たないとばかりに、唯一のテクストに絶対的な優越性を与えるという、世界でも日本知識人だけに起きる顕著な幻想形態は、恐らく帝国主義の大正に起源があります。「資本論」はそれが書かれた19世紀の問題しか扱うことができないのに、この限界を自覚することなく、社会主義政党が19世紀のマルクスへのこだわりから19世紀的「資本論」を20世紀的問題に適用していくとしたら、やはりうまくいかないです。「世界共和国」の柄谷は「帝国」の構造について発言し始めました