東アジアのグローバルデモクラシーの声を黙殺しつづけるこの絶望的な閉塞感とはなにか?

 このわれわれが直面しているグローバル資本主義は、系< '自分が=話すことをー聞く' ー> '外部の領域を=世界の中心にすることで=絶えず自己の領域を超える'>を推進してやまない構造である。他者の声を圧殺する資本蓄積の構造のことだ。「帝国」の柄谷はこの決定的な分析が欠けているようにみえる。いくら儒教の時代遅れの語彙を呼び出してまで、柄谷が「帝国」に委ねても、それは資本蓄積の構造(G-G')に委ねることと同じことでしかないのだ。大切なポイントはこれである。つまり、グローバル資本主義の問題を解決するためには、再び、それを推進した資本蓄積の構造(G-G')に委ねていくことは倫理的に不可能なのである。グローバルデモクラシーの小さな人間が帝国の大きな人間を正すしかないのであり、いいなおすと、グローバル資本主義に依る、中国の<帝国>であれ、アメリカの<帝国>であれ、東アジアにおけるグローバルデモクラシーの小さな人間が<帝国>の大きな人間を正すことにかかっているとおもう。ほかに、ヨーロッパの<帝国>、ロシアの<帝国>も考えると、ここでいわれることの意味は、グローバルデモクラシーは21世紀の精神である。それは「帝国の構造」と柄谷が呼ぶような幻想形態(民族主義的対立と権威体制の増殖)に抵抗していく市民的形態にほかならない

 

(言語論的分析)

Ecrire alors est le seul moyan de garder ou de reprendre la parole puisque celle-ci se refuse en se donnant.
-Derrida

 

トランスクリティーク」の柄谷行人が絡みとられていた幻想、<資本論が依拠できる唯一の他者としながら、そこで言われていない'国家'と'民族'の意味を読みだす>というこの幻想形態は、いかに定式化できるか。例えば、aはbを取り戻すための唯一の方法であるが、それはbが与えられると同時に拒否されるからである。ここでaに資本論を、bに他者を代入すると、一応こう再構成できようか。<資本論を読むことは他者性を取り戻す唯一の方法であるが、それは他者が与えられると同時に拒否されるからである>。また、a、bにそれぞれ、<書くこと>、<音声言語(パロール)> を入れるとデリダの言葉が現れる。「書くことは音声言語(パロール)を保持し、又はそれを取り戻すための唯一の方法であるが、それは音声言語が与えられると同時に拒否されるからである。」(グラマトロジー (下) 第二章)。こうして、「世界史の構造」=「帝国の構造」の柄谷の交換様式論が意味したのは、系A<資本論=書くこと=国家>、系B<他者=音声言語=互酬性(民族)>が存在するという見取り図を準備することではなかったか。だがこの二つの静的系では、資本主義の動的に発展の必然性を分析することが十分にできるだろうか?否だ。