'西欧合理主義'というのは<ひとつ>しかないのか?18世紀には<ひとつ>の啓蒙主義しかなかったのか?

 '西欧合理主義'というのは<ひとつ>しかないのか?
18世紀には<ひとつ>の啓蒙主義しかなかったのか?

マルクスとて、英国が西欧合理主義の文明を齎したのだからインドの植民地化は仕方がなかったという普遍主義の啓蒙的言説に絡み取られていました。スコットランドアイルランドと同様に植民地主義的発想で語られてきたが、この普遍主義を相対化する視点がスコットランド独自の啓蒙主義があったとする反論であります。英国啓蒙主義古代ギリシャ哲学の再構成から功利主義哲学の発展をみました。スコットランド啓蒙主義ではすぐにヒュームとスミスの名があがります。フーコはギリシャとローマのエピクテトスをみるために、バークリーに言及しました。ジョイスはジョン・ストゥコスとともにダン・ストゥコスを論じ、かれの宇宙の劇場「FW」はドルイドの詩的構成へいきました。ここで問いが生まれます。スコットランドの知はなぜかくも豊かだったのか?これに関しては、たとえば応仁の乱で寺を焼かれた僧侶達が儒学の学問の書物を携えて四国や九州に逃げた歴史を知れば、ローマ帝国崩壊後の'野蛮'な数世紀間、放火と殺戮を避けて文明の本たちが大西洋の方に、スコットランドアイルランドに集まってきた事情が分かるというものです。スコットランドこそは、当時の国際宗教センターとして、またヨーロッパの知の中心になっていきました。つまり文明を発信していったのです。ルネッサンスの前の時代にこうしたことが起きました。こうしてこれがスコットランド啓蒙主義の地盤を形成したものがなにかを考える材料になるのではないでしょうか。今日において、イギリスを含めた、<帝国>化していくEUの単一的普遍主義がいくら包摂しようとしても、これにたいして粘り強く抵抗していくスコットランドの独立の全体像を理解しようとすれば、紀元後五世紀から九世紀に遡るかれらの知の歴史を無視することができないんだろうとおもいますね。