21世紀の思想の問題

ヨーロッパの近代=西欧的合理主義=植民地主義、に対するアンチテーゼ。八十年代のデリダ脱構築ブームのもとで、ジョイスの各国語の翻訳は多様なゲームの規則の発明であり、啓蒙主義の一元性の幻想を突き崩すポストバベルの塔的プロジェクトとしてありました。('フィネガンズ・ウエィクは英語なのか?') 同時代的に、「言葉と物」のフーコは、西欧の知の内部にある外部の思考を方法論的に書きました。ところがポストコロニアリズム研究によって、外部の思考は非西欧の文化の実体と等値されていくのです。現在に至って、東アジアにおいて、国をあげて多様な非西欧的近代をいう言説が植民地支配を正当化しさえするようになりました。つまり反西欧合理主義をいう反植民地主義の原点が台無しになってしまったのです。(あるいは、デリダ的な西欧合理主義の一元性を崩すプロジェクトにそもそも限界があったのかもしれませんが。)さて、ギリギリの非常に危ない言説を展開してきている佐藤優との対談をおこなう、ギリギリ危ない権威主義に陥いったマルクス主義的書き手、柄谷行人の押しつけてくる解釈の「この道しかない」は、安倍の権威体制の「この道しかない」的政治権力とおなじようなプレシャーをもたらしてきました。なぜなのでしょうか? これらのことは、80年代からの思想史的展開を追ってはじめてみえてくる事柄であります。ヨーロッパ近代=西欧的合理主義=植民地主義に対する反定立が、東アジアの非西欧的近代の植民地主義に利用されている以上、エクリチュールを中心とした脱近代の文化戦略を見直す時か。90年代のジョイスは声の復権だった。ワールドキャピタリズム=帝国から自らの身体を守る共同体の抵抗の拠点として