宮沢賢治「銀河鉄道の夜」(1927)を読む

 

 宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」を十回以上書き直していたことについて、演出家の入江洋佑氏は、シュールレアリズムからリアリズムへと書き方がかわっていった事実に注目しています。なぜでしょうか?まず時代背景に注目しながら「銀河鉄道の夜」の思想を掘り返してみます。賢治は、はじまりは'日比谷焼き討ち事件'から、終わりは'満州事変'であったと構成されるような、大正に生きていたのですから、ここから、日本帝国主義の確立・展開をしっかりと見ていました。「戦争の国家主義、この道しかない」と人々に強いていく方向です。根拠もなく単にでっちあげによって、国家が、思想犯として非戦の社会主義者やアナーキストたちを一方的に処刑した「大逆事件」裁判 (1911) や大杉栄の惨殺(1923)。これらは、賢治にとっては、客体の側にはるか遠く過ぎ去ってしまったものとして消滅してしまったはずがありません。さてこれにかんして、物語中の気になる二つの文を示します。ジョバンニは「おとうさんは監獄へ入るようなそんな悪いことをしたはずがないんだ」と言っています...。敢えてこれは、だれもいわなかったことをはじめて言うような奇妙な言い方としてとらえることができます。つまり、少年は父が良いことをしていると知りながら、かくもこれほどの重い疎外感がどこからくるのか?物語は何も説明しませんが、ジョバン二の父が思想犯だったからではないかとする入江氏の推測も確かに一定の説得力があります。博士がジョバンニにきく場面での言葉を読んでみましょう。<「あなたのお父さんはもう帰ってきたのですか」博士は固く時計をにぎったまま、またききました。「いいえ」(ジョバン二の返事) > ここで今度は、過去から何度も繰り返されてきた言葉をあたかもはじめて言うような言い方に注意しましょう。「いいえ」でなにが意味されるのかが重要ではありません。むしろ「いいえ」を言う少年がその言葉にどのように触発されているかを読むことが大切です。すると、実は、(思想犯として国に罰せらた父に) 帰ってきて欲しくなかったという入江氏の解釈もそれほど突飛なものではなく、思想史的な再構成をとっています。こうして、シュールレアリズムに、芸術至上主義に、大きな限界をみとめ、リアリズムの方向に舵を取らなければやってはいけなくなったという作家の重い意識のことが明らかになってきたでしょうか?最後に、入江氏が分析しているように、宮沢賢治こそは、海の底にあるような絶望の淵で、しっかりしろ芸術!というような危機感をもってこれ以上世の中に巻き込まれまいとし、リアリズムによって巻き返そうとした作家でした。ブレヒト小屋に来たわれわれに向けて地中から掘り起こされた言葉たちが蘇ります。

賢治の死後、最終的にその弟から信頼を受けた東京演劇アンサンブルが、当作品の著作権を得て日本での初公演が実現していく契機は五十年代からはじまります。入江氏のお話によると、そもそも「銀河鉄道の夜」は文学に適した特別の作品として遺族に理解されていたようでした。これにたいして、当時広渡氏は、デュシャンの抽象性を利用するなどして、「銀河鉄道の夜」を大胆に演劇化することに成功しました。今日23日は、その入江氏の演出した「銀河鉄道の夜」をブレヒト小屋で観劇いたしました。さて、'銀河鉄道'というと、なにか、天にある最終目的地に至る天道の直線的イメージがあります。しかし東京演劇アンサンブルの「銀河」は単純に、そんな<天地>の二項対立に陥ることはありません。ジョバンニとカムパネルラが共に関わっていくのは、神仏の超越的な<天の道>ではなく、ただ、人がそこを往来通行する<人の道>であったようにおもわれます。つまり演劇というものが信頼してきたような<人の道>です。これは、ブレヒト小屋の舞台で目撃すると、宇宙のどこを切っても現れるぴちぴちと充満した運動状態(「泡」とか「影」)。つまりジョバンニとカムパネルラの間にあるのは、思考の運動をそれに含む、絶えざる運動状態でした。前述したように、「銀河鉄道の夜」の演劇化は、言い換えると、文学から演劇に飛躍するためには、かくのごとき演出の抽象性に依ることがなければ決して実現することがなかったのではないでしょうか

 

(ブレヒト小屋 12月26日まで公演)