21世紀は民族の問題は無くただ市民の問題しかないということ

21世紀は民族の問題は無くただ市民の問題しかない

啓蒙思想ヴォルテールは、ローマ文化の優位性は映像の多義的解釈にあると言いました。ところで風刺画というのは、フランスの言論の自由の歴史の一部だったから、常に民主主義と一体の問題として構成されてくるものです。今回の風刺画の問題は、社会秩序の維持と表現の自由という人権の間のバランスの問題として決着がつくでしょうが、単純ではありません。この種の問題はフランス一国を超える問題としてあることを隠ぺいできないからです。これは潜在的にヨーロッパ全体の問題、ヨーロッパの動乱の問題に関わります。そこでこの事件を契機に、ただし抽象的な全体像から、ヨーロッパの中の他者を考えています。映像の解釈は、<一義的>か<多義的>なのか?と、まるで世の中がやっと、映画世界のゴダールの問題提起に追いついてきたかのようです。だからこそ、<一義性>でいわれる意味は重要ではありません。寧ろ<一義性>の言説が、それを繰り返し言う者に触発する政治的な意味の方を読むべきなのです。このときヨーロッパの中の他者において、<一義性>とは全く正反対の<多義性>のアナーキーが意味されていることを見逃せません。他方、「リベラル」という名のもとに映像の多義的解釈を言うものは、その内容とは全く正反対の、一義性のヨーロッパ帝国ー文化的の同化主義ーを政治的に求め始めてきた可能性もあるのです。(ヨーロッパの中のイスラムは彼らがヨーロッパの知を与えた歴史ーギリシャとローマの学問ーを知っているためか、近代国家の同化主義の方向に有り難く行かないようですが。) 結論は、21世紀は民族の問題は無くただ市民の問題しかないということ。私の全体的な観察では、昨年のスコットランドの独立運動にあらわれてきたように、ヨーロッパの動乱の問題の根底に、ワールドキャピタリズムから必然的に生じる<帝国>化の包摂に巻き込まれまいと抵抗していくグローバル・デモクラシーの問題があることはこれまで指摘して参りました。