二十一世紀のリゾーム

「二十一世紀の資本」に書いてある話は当たり前とおもうのですけど、世界資本をコントロールできる単一の超国家的連帯が困難だと予言している一文を読むときに、ここで私をとらえるのはつぎの問いです。つまり単一の超国家的連帯が不可能ならば、それにかわるものは何だろうかという問い。その答えは、現在進行中の、地球市場の文化帝国主義的「帝国」の分割、にあります。この方向に沿った<一的>多様化は後戻りしないようです。この聞きなれぬ<帝国>という言葉は、柄谷行人が昨年から言い出した言葉ですが、かつての貴族を中心とした帝国 (例、神聖ローマ帝国とかハプスブルク帝国とか)、また国家を中心とした帝国主義 (例、大日本帝国)の「帝国」のことではありません。柄谷の「帝国」は文化帝国主義の「帝国」に近い意味です。さてどういう文化がどの帝国に振り分けられるのか?('芸術としての政治'のナチスが文化的に対抗しようとした)「ハリウッド映画」、(欧米に対抗する)「新儒教」、ポスト・コミュニズムの「皇帝」、(自らの排他的他者を野蛮に指定し自らを文明として定義する)「表現の自由」は各々、米国、中国、ロシア、ヨーロッパの帝国に振り分けられているようです。一方アラブ諸国は全然連帯できないままですー風刺画に描かれた統一のステレオタイプのようには。(お好み焼き的にこれらの諸文化のゴタ混ぜを構成していきそうな亜周辺のニッポン列島のほうは、TPPと集団的自衛権のプレゼントを抱えて、そのままアメリカ帝国のブラックホールのなかへポイか?)。各々の帝国は互いに競い合う資本主義を基底にもっていますから、各々の文化は互いに他に対して敵対的に対立の関係に。二一世紀の動乱は例外なく、帝国の内部で、世界資本主義の不均衡から起きてくるグローバル・デモクラシー (アラブの春からオキュパイ運動、台湾と香港の運動) に構造的に関係した運動であるとかんがえています。そしてこの運動は「でもくらてぃあ」(小田実)と呼んではならぬ理由は無いでしょう。社会主義を国家の中心に包摂しないという意味で、'脱領土化'した思想と思想の出会い、つまり、幸徳秋水アナーキズムの思想と小田実の市民の思想の関係こそは、リゾーム的。子安氏がいうように、思想史的脈略(樹木)は問題ではない。それがいかにワールドキャピタリズムに対する抵抗の言説を構成するかが大切なのだから