表象批判 ー 「言葉と物」のフーコは本当にそれほど非マルクス主義的だったのか?

渡辺一民氏が「苦労してうまく訳した序文」と言っていたが、この序文のなかで分析されているベラスケスの「侍女」ほど、画家と<背後>の複雑な関係を表現した絵はない。ポスト構造主義の批判精神は自身の言説の依る<背後>も問いの括弧にいれたとき、この絵画に触発された。鑑賞者は三点について問う。まず知の自己抑制と、超越的な知の可知性に関して問う。画家の<背後>に何かあろうとと無かろうと画家は知るべきではないのではないか?画家は自らの<背後>を知るに至らないが、(画家が描く)王ならばその<背後>を知ることが可能ではないか?三番目の問いの切り口はこうだ。なぜ画家が、王女を照らす同じ光で「侍女」を平等に照らし出したのか?画家は、<背後>でないもの、即ち画家の眼の前に現れているもの(例、侍女)によってだけ、<背後>をうつすことができるだろうと。またそうしてみるべきなのである。(画家の前には鏡しかないという冗談を別にすれば) 画家の眼の前にあるのはこのわれわれだけだ。(室外からはいってきた偶然の光で)奥の鏡にぼんやりと映る王の姿は消えかかっているが、(近代のわれわれ鑑賞者が位置している)ブルジョア市民社会の姿によって、超越者の存在していた特権的な場所とその王の姿をうつすことができるのだろうか?これが、フーコ「言葉と物」の問題提起であった。これは非マルクス主義的な分析である。逆の方向で、常に王の姿によって侍女の姿が盗まれる危険性を、表象の盗みという権力関係を考慮していないのは、今日の非政治的な貨幣論を喚起する。だが、同時に、マルクス主義的な問いかけといえる。自ら自分の声を代表することができない人々はいかに代表するかという問題を表しているからだ。だが、同時に、マルクス主義的な問いかけといえる。自ら自分の声を代表することができない人々はいかに代表するかという問題を表しているからだ。ここで、王の姿が消失しきっていたとしたら、画家が企てる表象行為は無意味に帰す。(われわれの姿によってはじめて王の姿が現れるはずだったのに)。無意味でないとしたら、画家は中世的世界観を超えていく近代精神の知の姿を描写しているのだ。そこで根拠なき近代の人間の姿として発明されている。