ファシズム批判の使命をになって70年代にデビューした批評精神はどこへ

ファシズム批判の使命をになって70年代にデビューした批評精神はどこへ

何が<先>で何が<後>なのか?国家が成立する前にファシズムは出現することはありませんでした。国家が<先>でファシズムが<後>です。常の事として、近代主義者の口から、ファシズムの形態の如く語る過剰なナショナリズムを抑止できるのがただ国家だけだときくとき、これでは何が<先>でなにが<後>かを理解できていないと言わざるをえません。ただ国家が国家自らを正当化するような教説です。ファシズムというのは、体系的な近代の内部からしか、国家からしか現れてこない体制なのです。この認識に立って、(もはや社会民主主義によっては防げないファシズムを避けるために)、' 近代を乗り越えていく'ことが思想的課題として70年代に自覚されたのが、ポストモダニズムでした。いまらさらポストモダニズム、されどポストモダニズムファシズム批判の使命をになってデビューした批評精神でした。またポスト構造主義からは、ポジティブな批評性が再発見されてくる戦前の<近代の超克>の見直しがありました。(近代の超克は、方法としての日本的近代を想定しここに留まることなくさらにこの日本的近代を乗り越えていくプロセスを問う知の運動であった可能性を指摘する昭和思想史的見直しを、新たな戦後民主主義は本当にそれほど民主主義であったかとする問題提起のなかで行う。)しかしこれらの知の問題提起は、ポストモダニズムが市場と等値され、近代の超克が似非ポストコロニアリズム的な大日本帝国憲法的反近代と等値されていく、90年代以降の新自由主義新保守主義の反動的知識人達によって、台無しにされてしまいました。今日安倍などの近代主義者達は益々国家の排他的他者を攻撃する愛国者の口調に、他者を同化することだけで解決できると信じた新植民地主義者の顔で。一方ポスト構造主義の批評精神は、マルクス的に<でもくらていあ>的に抗議する市民のグローバルデモクラシーの言説の方へ発展できるかが課題