パラドックスのゴダールの映画史

パラドックスの映画史

「映画史」にどんな映画がいくつあるのかという問いも本質的なものではないとおもいます。「映画史」「映画史」を言う主体(ゴダール)に触発する意味が問われるべきだからです。見ることの複数性の意義を教えるとき、正反対の方向で、絶望的に見ることの不可能な唯一の映画への拘りを示している!だからどんな映画があるのかはどうでもいいこと。ただ、ゴダールは映画史をどう読んだのか、が問われるべきだと私はおもいます。ゴダールの映画史的編集によってはじめて映画史が成立したことが重要なのです。その中でルノワールやヒチコックへの憧憬は映画の道を制作した聖人の知を称えることを意味しました。彼らの映像エクリチュールは言葉で語られるようにはできていなかったから、ゴダールが映画の読み方を教えたのですね。ゴダールは、漢学的注釈によってはじめて日本的神話を、やまと言葉を読みだしていくという本居宣長の逆説と同様なものに直面することになったとかんがえてみることは意義深いでしょう。(宣長古事記を編集することによってはじめて、神話的世界、やまと言葉を読みだしたのです。逆ではありません。)言葉で語るようにはできていない映像だけに依るといいながら、映像的エクリチュールによって、映画史的神話を、言葉を読みだしていくのははじめからパラドクスであったといえるのです (リュミエールの列車をみたカフェでのひそひそ声も消滅してしまった)