ギリシャの選挙

わたしはパリでの追悼デモにため息をついたのは、言論の自由表現の自由の主張に対してではありません。追悼デモのなかに、国家(フランス)の敵対的他者にたいして揶揄するイスラム嫌いの愛国者ーネットに触発された意志表示の形でーが国旗を降って存在していた一定の数の人々をネットの映像上で目撃したから溜息をついたのでした。追悼デモのリアクション(反応)はまだ起きていないですから、判断を下すのは早急ですが、面白いとおもったネグリの指摘では、しかし今回この排他的な者たちも、(現在フランスの)権威的な政府にたいしては、自分たちの意志もまた通らず、このことによって自分たちの力の限界を知ることになったはずなのです。宗教的な儀式とは全然ちがうようにみえる、この追悼デモの抗議が、将来的に、反権威的に展開するポテンシャルの存在も否定できないのであります。はたして、ヨーロッパを覆う極右翼にたいするカウンターになるのかどうかは、危ういものですが、コントロールできないデモの事件性というか、革新と反動の間に揺れ動いて止まらないマルチチュードのエネルギーにかかっています。確かに、さすが経験豊かなネグリはデモの大切なポイントをついているとおもいます。前置きが長くなりましたが、この意味で、反貧困に行く、ギリシャの選挙の結果に大変注目しているところです。余談ですが、こちらの国の話で、なんとかしなければという善意でボードをもった自分の姿をメッセージで流そうときめた思いに敬服しますが、そうではなくて、ただ、流行を追うようにフランスの真似をして他人の名前と同一化している自分の姿を誇示している者たちの映像をみるたびに、超党派の「和装コスプレ」の類で、自己宣伝のほかになにか作用とか反作用があるのかとちょっとだけ疑問に。ネットだけで世の中に訴えたつもりでいる大きな力を自分がもったと過信することは禁物、実は、自分自身への戒めとしてもここに書いておこうとおもいました。