デュラスと ゴダールのファシズム批判

デュラスと ゴダールファシズム批判

「崇高なもの」とは、「比類なきもの」を意味する。それは欲望の「全体的なもの」に絡み取られていくことがある。この能記ー所記それ自身が欲望である。だが、「崇高なもの」の言説がそれを言う主体に触発する意味は、「全体的なもの」とは正反対のものである。「崇高なもの」を書く主体の行為は「無」であり、たとえばデュラスは常に「無」を強調する。「私の顔の実質は破壊されている」というふうに。このようなデュラスの<無>は、比べると、サルトル的無からほど遠く、ベケットの書くことの義務の位置に遥かに近くにあるようにみえる。ただし、ベケットと異なる点は、デュラスの書く行為は「私の家」においてしか許さないような「私」的なものである。それなのに、ここで、デュラスの書く行為が、(ゴダールの書く行為との間の差異は無視することはできないが) あたかもゴダールのように全体の喪失感の中で天命の如きものとして存在しているようにみえてくることは一体なぜなのか?「崇高なもの」を書く主体の行為は、欲望の内部から内部に沿ってあるとしてもいずれ「全体的なもの」に絡み取られていくだけではやっていけなくなるのだという無理の絶望からそれほど遠いところに位置していないことだけはたしかだ。つまりこれが、デュラスとゴダールファシズム批判、「崇高なもの」かつ「全体的なもの」としてあるファシズムにたいする批判を構成するのではないか。