ゴダールとはだれか

「グラマトロジー」のデリダは、「表音化は一つの歴史を有しており、どんな文字もこれを絶対的に免れるということはない」という。例えば、宣長が「古事記」に行った漢字言語の表音化がその例だが、エイゼンシュタインのように映画の映像を「文字」とみなせば、「表音化」は映画史においても起きた。つまり映画における表音化は、ジルドゥルーズが「平行的」と呼んだような、脈略なくゴダールが過去の映像に音を与えていくラディカルな編集を通して現実化したのだ。歴史概念 (映画史の概念)は、1970年代後半からの一定の時期に現れたのであり、歴史概念はゴダールの発明的な編集を前提としている。再びデリダ宣長ゴダールを理解するうえで参考になる。「純粋に表音的な文字 (エクリチュール) は不可能であり、またそれが非音声なものと手を切って存在したことは決してない」とデリダにおいて言われるように、宣長の場合、実体として存在する純粋なヤマト言葉については言及しなかったといわれるし、(仮にあっても彼が) 注釈学的に依る漢字言語の読みから切り離されてあたかも独立的に存在することはない。ここでの問題は、不可能な起源に、不可能な純粋に表音的な文字を実体的に語りだしてしまう歴史概念にあった。それは文字の出現とその腐敗を物語るが、しかし文字は歴史概念に先行しているのだ!さて、こうして、ゴダールブランショの言葉をひく理由がわかってくる。「映画は何も恐れはしなかった、他のものも、自分自身も、映画は時間から守られていたのではなく、時間を守っていた」」(このブランショの言葉は作品「映画史」の最後のほうでかれの肖像画とともに引用される。) バザン的な意味で映画の起源に現象学的に写真的なものを発見しそれを基準にして、「悪い映画」をきめることは批評家時代のゴダールの構成ではかった。「確かにイマージュとは幸福なものだが、その傍には無が宿っている。イマージュのあらゆる力は、この無に頼らなければ説明できない」(ブランショ)。映画史がそれを言うゴダールに触発した意味は、<映画史をいかに読むか>だった。だけれどもそうして、ゴダールに見い出されたのは、まったく正反対の意味だった。つまり映画史は読めないということである。デリダ的にいえば、映画史において痕跡の無根拠化が常に生成しているからなのだろうか。

 

 

このゴダールの「映画史は読めない」という自由な編集の徹底化の傍らで、ナレーションであるゴダールの魂に書いた声は消滅していく、と同時に、映像の絶対的な美にたいする称えが天にたいする信仰の如く現れてくることになった。ゴダールのいわゆる天と地の間で語り出す時代である。オリヴェイラーとともに、消滅しきったサイレント映画が神秘的にふたたび蘇るのはこの時代であった。
C'est d'ailleurs ce que j'aime en gènèral au cinema.Une saturation de signes magnifiques qui baignent dans la lumière de leur absence d'explication.
ともかく私は、概して、映画のそこが好きだ。説明不在の、光に浴たす、壮麗な記号たちの飽和

この時期のゴダールを芸術至上主義かどうかについては議論の余地が残されているが、ゴダールの支持者のなかには、かれに芸術至上主義への傾倒をみとめて失望のうちにかれの映画から離れていった人々もいた。私の周りではフーコの著名な研究者がゴダールにたいして少なからず幻滅を感じていた。2000年代と2010年代へと、ワールドキャピタリズム批判、グローバル・デモクラシー、socialismについて発言していくのであるが、たしかにゴダールが夢想するかの如き芸術の孤独な力では、資本主義を打ち倒せないのは誰の目からみても明らかだ。組織の力が必要とされると反論されよう。しかし、かれのファシズムに抵抗するための問題意識は一貫して持続してきたことは特筆すべき点です。西欧合理主義の住み処である、最強の政党と労働組合とマスコミを恐れることがなかったあのナチスが、スターリンの軍隊にでも無敵の連合軍にでもなく、無力な芸術至上主義の孤独な交際にたいしてあれほどの畏れを抱いていたのは一体どういうわけだったのか?これを問うたのは「全体主義」を書いたハンナ・アーレントでした。結局まだだれもナチスを分析できてはいないというなかで、ゴダールファシズムに抵抗する芸術至上主義としての自らの役割に意識的だったようにおもわれる。

ゴダール「Adieu au langage (さらば、愛の言葉よ)」。 ’さようなら’を言う者は、ウィットゲンシュタインの例のように、常に正反対の意味に行くことになる。ゴダールも例外でなく、別れを告げたこの路に他の路(森)を見つけたが、しかしここから再びはじめるとしても、自分よりも人間を思って彷徨う犬 (哲学) に変容した、詩人(精神) の物を観る眼でなければ、この戦争なき森とともに生きることなどはとても無理だろう。

 「崇高なもの」とは、「比類なきもの」を意味する。それは欲望の「全体的なもの」に絡み取られていくことがある。この能記ー所記それ自身が欲望である。だが、「崇高なもの」の言説がそれを言う主体に触発する意味は、「全体的なもの」とは正反対のものである。「崇高なもの」を書く主体の行為は「無」であり、たとえばデュラスは常に「無」を強調する。「私の顔の実質は破壊されている」というふうに。このようなデュラスの<無>は、比べると、サルトル的無からほど遠く、ベケットの書くことの義務の位置に遥かに近くにあるようにみえる。ただし、ベケットと異なる点は、デュラスの書く行為は「私の家」においてしか許さないような「私」的なものである。それなのに、ここで、デュラスの書く行為が、(ゴダールの書く行為との間の差異は無視することはできないが) あたかもゴダールのように全体の喪失感の中で天命の如きものとして存在しているようにみえてくることは一体なぜなのか?「崇高なもの」を書く主体の行為は、欲望の内部から内部に沿ってあるとしてもいずれ「全体的なもの」に絡み取られていくだけではやっていけなくなるのだという無理の絶望からそれほど遠いところに位置していないことだけはたしかだ。つまりこれが、デュラスとゴダールファシズム批判、「崇高なもの」かつ「全体的なもの」としてあるファシズムにたいする批判を構成するのではないか。