2015年のフーコーとはだれか?

2015年のフーコーとはだれか?

現在のこれほどの疎外の原因を知るためには、1966年に世に出たフーコー「言葉と物」(第一章侍女たち、第十章五精神分析文化人類学)を再び開いています。かくも構造的に取り囲まれてしまっては、人間の魂(心)が救われることは絶望的に無理におもわれます。現在は、この魂(心)が全体を覆う体系から外へ逃げたとき隣人から非国民と名指されたらもうすべてが終わりとなるような戦中の悪夢のようであります。「敵」か「味方」かと叫ぶ世界の内部の中に絡みとられていく魂(心)に、思考の巻き返していくほどの柔軟性がまだあるのか?法はまだあるのか?法はどこに?憎悪の互酬性のなかで法が自らを引き裂くことをやめないではないか!現在の「敵」か「味方」かと裁いてくる戦争から逃れるような、外部の思考がいかに可能となるのだろうか?これを問うたのたが、「言葉と物」のフーコだったことにやっと思い至り、これも分からずいままでこの本のなにを読んでいたのかと唖然としております。

 

追記

もしここだけを読まなければならないとしたら、「言葉と物」のどの章を読んだらいいのでしょうかとおたずねしたら、迷われて、「そりゃー、翻訳で一番力を入れた一番最初の'侍女たち'だよ」。この一年後に同じ質問をしましたら、しばらく考えて「一番最後の章にきまってるじゃないか」と。はじめとおわり(あるいは、はじめとはじめでないもの、つまり第二章第三章・・・)、この両者が、一民さんのなかでは、常にある多様な関係を保って互いに繋がっていたのだなと納得したものです。「言葉と物」については自分から語ることがなかったのですが、最後の総会のときは、ほんとうに珍しくですね、びっくりしたのですが、自分から本について思いだしていました。「ぼくは当時の大江くんと三島の両方から、つまり左と右からきみはいいものを出したと褒められちゃったものだからね、こんなにうれしいことはなかったよ」と。来年は、日本は戦争しているとおもいますけど、あきらめず「2016年のフーコとはだれか」を書きたいです !