失われた定理をさがしもとめて - ー <でもくらてぃあ>の決定する力

失われた定理をさがしもとめて ー <でもくらてぃあ>の決定する力

選挙に圧勝した安倍自民党のもとで、美しい日本に帰れ!とばかり再び戦前のごとき翼賛的な大合唱が起きていますが、しかしそうして演出される戦争の復讐劇、歴史修正主義の首相の靖国公式参拝、オリンピックの熱狂は一時的に、増幅する不安を延期してくれるだけだとおもいます。どんな故郷 (初め) に帰るとしても、安心して帰るためには、戦後の原発の災いに帰結したジャパンアズNo.1のナショナリズム的繁栄が結局何を意味したのかについてワイワイガヤガヤと議論することがなければ。遡って、1920年代の天皇主権の下で成立した形だけの議会制民主主義が、「大逆事件」と大杉の殺害を契機に、昭和の陸軍ファシズムによって翼賛的代表制として形骸化したこと、戦後の最終的な骨抜きが安倍自民党の圧勝によって起きたことをしっかりとみなければ、この議論は有効に成り立ちません。<でもくらてぃあ>の決定する力は、対話術、問答術を意味するdialektiké technéに規定されています。帰るためには、小田実が言った、反軍国主義・反全体主義のこの<でもくらてぃあ>の力にウロウロウヨウヨと行くときではないでしょうか。