だれが公共放送とはなにかと問うのか?

だれが公共放送とはなにかと問うのか?

NHKの問題は放送の内容だけに関心がいくものでしたが、これからは一層、放送の形式について批判的に考えることが大切な課題となってきました。民主党議員の原発推進の主張にみられる無責任な右翼的立場はまったく信頼をおけませんが、しかし放送にかんする議論になると、かれらのNHKの公共性をまもろうとする義憤だけは信頼してもよさそうです。「放送はXXである」とする言説がそれを言う主体に触発する大きな力に、遅きながら、やっと気がつきはじめました。このときは民主党タカ派の議員とはおもえませんね。ここでいいたいことは、議員でなくとも、つまりわれわれのことですが、「放送はXXである」を問う言語の中で、言語の内部から言語に沿って人間がなにを語ろうとたたかうのかということです。まだぎりぎり立憲主義的の複数政党制の痕跡を読むことができるのか?また、もはや自分は被害者であるとする潔癖な無党派性の立場から、安倍自民党が捕獲した「公共性」を論じ続けていくことが果たして可能なのか?内閣支持率のことを考えても非常に絶望しきってはいますけれど、最後までこの人間の存在をかけた言語行為の展開を注意深くみたいというおもいです。(戦前の体験から明らかなように、戦争体制になったらもう言語活動そのものがなくなりますから、戦争体制がここで書いた「最後」です) ちなみに、首相の「日教組」をヤジとみるのは、pointlessかもしれませんね。安倍が言う「日教組」の意味は巷の大衆週刊紙が分析すればいいこと。われわれは、「だまれ!」と命じる権力の様態に注目します。放送のなかでこの権力がなにを意味するかが明らかにされるべきと私はおもいます。つまり、放送を意識した、ほかならない、戦争体制の号令のはじまりではなかったでしょうか。